欧米留学
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1992年,アムステルダムのスウェーリンク音楽院に留学し、ヘルマン・クレバースに師事した。1993年、エリザベート王妃国際音楽コンクールで第1位を受賞した。1994年、第4回出光音楽賞を受賞。1995年、オランダの作曲家トリスタン・コイリスからヴァイオリン協奏曲第2番を献呈され、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団と初演を行った。1996年,ジュリアード音楽院から「ディレイ・スカラーシップ」を得て、1年間同音楽院に留学し、ドロシー・ディレイに師事した。1997年,ニューヨークでリサイタルを開き、ニューヨークデビューを果たした。
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欧米留学
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「藤原浜雄 (ヴァイオリニスト)」の記事における「欧米留学」の解説
1968年、桐朋学園大学を中退し、その後キジアーナ音楽院、ウィーン音楽アカデミーを経てジュリアード音楽院に入学し、ジョセフ・フックスに師事する。1971年、エリザベート王妃国際音楽コンクールで第3位を受賞した。同年、昭和天皇・香淳皇后訪欧の際のベルギー政府主催歓迎演奏会が開かれ、御前演奏を行った。1972年、ナタン・ミルシテインの代役としてロチェスター・フィルハーモニー管弦楽団と共演し、アメリカでオーケストラ・デビューを果たした。
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欧米留学(1905-1909)
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「永井道明」の記事における「欧米留学(1905-1909)」の解説
道明の欧米留学には、体操科の統一、すなわち当時議論が続いていた普通体操・兵式体操にスウェーデン体操を採用するかどうかが中心課題として与えられた。当時、体操の専門家が集って体操及遊戯調査委員会が体操の統一を議論していたが、委員会はスウェーデン体操を採用するも従来の普通体操も改良すれば採用できるという玉虫色の決着を図ったため、どちらの派閥にも属さない新人物として文部省から期待されたのであった。留学順路はまず先進国のヨーロッパを歴訪した後、新興国のアメリカへ渡るべしと説く坪井玄道派と、日本の教育に深いかかわりのあるアメリカを先に、続いてヨーロッパへ渡るべしと説く高嶺秀夫派があったが、道明は高嶺の案を採ることを決め、姫路中を辞して1905年(明治38年)12月22日に横浜港からエンプレス・オブ・チャイナ(英語版)でアメリカ大陸へ渡った。船中で年越しし、1906年(明治39年)1月3日にバンクーバー港に上陸、1月10日にニューヨークに到着した。そこで学ぶべき体育学校を探し、2月にボストン体操師範学校(Boston Normal School of Gymnastics、後にウェルズリー大学体育学部となる)に入学することを決定した。ボストン体操師範は女子校であったため、男性の道明は客分(guest)という形で入学し、校長のエイミー・モーリス・ホーマンス(Amy Morris Homans)宅に寄宿した。ここで道明は生理学・解剖学・教育心理学などの座学、病院での医療体操などを習得し、空き時間を見つけてはYMCA、YWCA、体育館、公園などを視察、夏休みにはシャトークアの夏季体育学校で修練した。しかし、アメリカで行われていたスウェーデン体操に道明はあまり共鳴しなかった。 約1年半のボストン体操師範での留学を終えると、シカゴ、セントルイス、ピッツバーグ、ワシントンD.C.、ニューヨークなど主要都市を歴訪し、1907年(明治40年)7月にボストンから出航、イギリス・リヴァプールに上陸、ロンドンのシェパーズ・ブッシュに宿を取ってイギリス国内を視察した後、同年8月にスウェーデンのストックホルムに入った。道明は同地で国立中央体操練習所に入学した。 スウェーデンでの生活は、午前中を中央体操練習所で教育的体操と医療体操の実地訓練、軍隊体操(剣術などの武術)や女子体操の見学に充て、午後は体育団体等の見学やスキー・スケートの練習を行い、夜は現地の軍人との交流や芝居の鑑賞などをするというものであった。ここで白夜・極夜に驚嘆したり、時には中尉・少尉らと飲み明かしたりする一方で、スウェーデン体操の神髄、体操指導者のあるべき姿、ウィンタースポーツを学んだ。ルンド大学やスウェーデン体操の創始者・ペール・ヘンリック・リング(英語版、スウェーデン語版)の生まれた地も視察した。またスウェーデン滞在中の1908年(明治41年)に第4回オリンピックがイギリス・ロンドンで開かれることを知り、急きょ7月に渡英して観戦、8月にドイツ・オーストリアに渡ってベルリンやウィーンなど主要都市を歴訪、ベルギー経由で10月にロンドンに戻って冬季競技を観戦した。オリンピック観戦を終えた道明は日本へ行李を先に送り、フランス、スイス、イタリア、コルシカ島、ギリシャを巡り、1908年(明治41年)12月24日にエジプトのポートサイドから帰国の途に就いた。1909年(明治42年)1月27日、神戸港に上陸、2月4日に東京入りした。 道明の欧米留学はスウェーデン体操の調査研究が主目的であったが、公園や運動場などの体育施設や、都市だけでなく地方にまで足を延ばし現地の運動会を視察するなど、社会体育の状況の実態調査も行っていた。これが後の「国民体育論」につながっていくのである。
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