日本における散弾銃の歴史とは? わかりやすく解説

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日本における散弾銃の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 07:37 UTC 版)

散弾銃」の記事における「日本における散弾銃の歴史」の解説

詳細は「日本銃器英語版)」および「日本火砲英語版)」を参照 戦国時代天文12年1543年)の種子島への鉄砲伝来以降明治維新に至るまで、日本狩猟は主に弓矢火縄銃用いられており、散弾はほとんど使用されなかった。 明治時代入り外国から元込式ライフル銃や元折水平二連銃輸入されるうになる中、明治13年1880年)に村田経芳の手により、日本初の元込式ライフル銃である村田銃発明される。 この村田銃猟銃転用すべく、松屋兼次郎が村田経芳指導の元、明治14年1881年)に火縄銃銃身流用して開発し村田式散弾銃日本初の元込式散弾銃となった。後に村田経芳民間広く村田銃パテント販売したことが契機となり、刀鍛冶鉄砲鍛冶村田式散弾銃銃身機関部作り指物師が銃台を作る状況生まれ日本散弾銃産業端緒となっていった。 有坂成章の手により明治30年1897年)に三十年式歩兵銃次いで明治38年1905年)に三八式歩兵銃開発されると、それまで制式であった軍用村田銃洋式ライフル銃ライフリング削り取られ散弾銃として民間払い下げられるようになった明治・大正期には英国水平二連銃ブローニング・オート5などが輸入されていたが、この頃、原三郎の手により明治32年1899年)に日本初水平二連銃製造され次いで大正3年1914年)には岡本銃砲店の太田政弘によって日本初の上下二連銃が製造された。この時代川口屋銃砲店の石川次郎岡本銃砲店の名和仁三郎浜田銃砲店の浜田文次らが各種二連銃名工として名を馳せた。 しかしこれらの輸入銃国産ハンドメイド二連銃専ら上流階級ハンター達が購入する留まり庶民猟銃主流昭和20年1945年)の敗戦まではほとんどが軍用銃改造品、若しくは民間銃器メーカーにてライセンス製造され村田式散弾銃であった昭和12年(1937年)に日中戦争勃発し日本国内戦時体制移行。翌昭和13年(1938年)には散弾銃はじめとする狩猟銃は「不要不急贅沢品」として輸入及び製造一切禁止される。この日本政府による禁止令は、第二次世界大戦敗戦後昭和25年(1950年)まで継続されたが、約13年渡り市井に新銃が全く供給されなかった事により、戦後狩猟生産解禁時に市場一気活性化する一因ともなった。なお、第二次世界大戦末期には、連合艦隊の壊滅組織的な海上行動がほぼ不可となった大日本帝國海軍によって、市井に残る散弾銃5万余り供出させられサイパンの戦いなどで海軍陸戦隊守備兵供出され散弾銃配備されたという。 敗戦後昭和28年1953年)、GHQにより狩猟銃の生産解禁されると、それまで銃砲店に所属する職人によるハンドメイド体制代わり軍用銃機関銃村田式散弾銃などの製造携わっていたミロク製作所SKB工業晃電社などが元折単身銃、上下二連銃水平二連銃本格的な量産乗り出し始めた昭和38年1963年)に日本猟銃精機(後のフジ精機)にて国産初の反動利用式セミオートのフジ・ダイナミックオートが開発される昭和40年1965年)にはSKB川口屋銃砲店(KFCブランド製造シンガー日鋼)も反動利用式オート参入村田式散弾銃主流であった日本狩猟界に大きな反響巻き起こすが、1963年米国レミントン社からガスオートのレミントンM1100発売されると、セミオート主流反動利用式からガスオートに移り変わっていき、昭和40年代中期にはフジ精機SKBKFCの3社ともガスオートに生産主力移していく。 1960年代末ごろより欧米圏とりわけ北米市場への輸出の道が開かれた事も日本散弾銃メーカーにとって成長追い風となった1960年代まで米国銃器メーカーOEM供給元として主に欧州銃器メーカー選定していたが、1970年代入り欧州各国インフレーション進行した事により収益を出す事が難しくなり、より為替差損少なく丁寧な工作精度を持つ事で知られていた日本銃器メーカーこの頃より欧米メーカーOEM供給元として採用される事例増加した日本メーカーによるOEM供給体制トルコなど新興国銃器メーカー台頭する2000年代中盤ごろまで盛んに行われていたが、欧米銃器業界関係者からの評価も非常に高く全米ライフル協会ライターであるフィル・バージャイリーは、1984年から2004年掛けてウェザビー(英語版)のOEM担当した新SKB工業評して信頼性高く本当に素晴らし完成度であった。」と記していた。 一方国内では1970年前後猟銃暴発誤射による事故相次いだ宮澤喜一通商産業相は「国内銃砲刀剣類売り上げ年間50億円に達している。狭い国土ハンターの撃つに任せて良いだろうか。」「通商産業省としては散弾銃製造禁止して良い思っている。」といった批判の声挙げ猟銃所持許可猟場ハンター資格など狩猟全体あり方厳格化される契機となった。 さらにその後1970年代後半から80年代後期に入ると日本狩猟全体高齢化新規参入者不足で内需減少する構造不況に陥っていき、各メーカーとも生産した銃の大半為替相場変動収益安定しにくい輸出に回さざるを得ない状況となり、安定したOEM供給先が確保できなかった国内メーカー多く倒産撤退していった。2000年代以降イタリアスペイントルコなどの新興国銃器メーカー日系メーカー価格競争力上回る実力付けていき、日系メーカーOEM供給先を徐々に侵食していった事も逆風となった2000年代まで日本散弾銃量産メーカーミロク製作所新SKB工業の二社体制となっていたが、2009年9月11日新SKB工業世界金融危機及び円高影響受けて輸出伸び悩んだ結果資金繰り行き詰まり廃業至った事で、国産散弾銃メーカー事実上ミロク製作所のみとなった。 なお、戦前のオーダーメイドスタイルでの散弾銃製作を現在でも行っている工房として、三進小銃製造所存在する

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「日本における散弾銃の歴史」を含む「散弾銃」の記事については、「散弾銃」の概要を参照ください。

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