日本における教育ディベート
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「ディベート」の記事における「日本における教育ディベート」の解説
本格的な教育ディベートは、福澤諭吉によって初めて日本にもたらされたとするのが定説である。福澤は「debate」の訳語に「討論」という日本語を当て、日本に広く普及させるとともに自ら実践した。1873年(明治6年)に福澤が行った日本初の教育ディベートの論題は「士族の家禄なるもの、一体プロパーチーであるか、サラリーであるか」だったとされている。討論は、この頃から学校教育で課外活動として位置づけられはじめ、旧制中学においても1877年頃から各種の討論会が行われはじめる。こうした教育ディベート活動は、1897年以降には多数の理論書も出版されるなど隆盛を極めるが、大正時代に入ると戦渦に巻き込まれ徐々に衰退し、やがて消失してしまう。 戦後に入ると、冠地俊生らによって再び教育ディベートの必要性が叫ばれるようになり、再び各地で活発な討論会が開催されるようになる。1946年から1950年にかけて朝日新聞が主催した「朝日討論会」は、延べ参加校642校という大規模なものであった。その後、1950年には、全関東大学討論会(全関東学生雄弁連盟主催)、英語ディベート大会(国際教育センター主催)が開催される。その後の教育ディベートは、日本語では弁論部、英語では英語研究会(ESS)が主導し、それぞれ各種のディベート大会を開くようになっていった。また、これらの団体は初中等教育にも関与し、幅広い層で教育ディベートが実践されるようになった。もっとも、この時期の討論会は、教育・学習として行われると同時に言論活動として行われたものも多く、実質的意味のディベートにかなり接近したものであった。そして、このような活動も1960年代以降の学園紛争などの影響で再び停滞期に入ることとなる。 1980年代以降、松本道弘らによって三度ディベート教育が唱道されはじめると、それと歩調を合わせるかのように、各種団体が活発にディベート大会を開くようになる。1983年に全日本英語討論協会、1986年には日本ディベート協会が発足。1990年代に入ると、一部の大学で日本語ディベートサークルが設立されはじめるとともに、学校教育の中でディベートを積極的に導入しようとする動きが起こる。1997年には、大学生を対象とした全日本学生ディベート選手権大会(全日本ディベート連盟主催)、中学・高校生を対象とした全国中学・高校ディベート選手権(全国教室ディベート連盟主催)、参加者を限定しないJDAディベート大会(日本ディベート協会主催)が、それぞれ創設された。近年では、入社試験や入学試験においてディベートを実施する例も数多く出てきている[要出典]。 このような1980年代以降の潮流がそれまでと大きく違う点は、学校教育の正規のカリキュラムにディベートが導入されたこと、社会人の社員教育プログラムとしてのディベートが広く普及したことであろう。学校教育の分野では、現行学習指導要領でディベートの導入を促す項目が追加され、授業作りネットワークや全国教室ディベート連盟、そして現場の各教員による様々な取り組みが行われている。さらに、社員教育の分野でも、ディベート研修、ロジカルシンキング研修などといった各種の社内研修・公開講座が、広く開催されるようになっている。研修講師の多くは、80年代以降の教育ディベートによる訓練を経ており、生徒・学生の教育にも積極的に関与する動きが見られる。現在[いつ?]、学校教員と研修講師は、教育ディベートの牽引役として欠かせない存在となっている。 福澤諭吉以来、日本が伝統的に接受してきた教育ディベートは米国式のそれであったが、近年では、パーラメンタリーディベートと呼ばれる英国式の教育ディベートが日本でも急速な普及を見せている。1998年には日本パーラメンタリーディベート連盟が設立され、それまでの教育ディベートとは一線を画する一大勢力として成長しつつある。 また、2015年には日本で唯一ディベート教育に特化した学会であるディベート教育国際研究会が誕生している。
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