文化人類学と婚姻規則とは? わかりやすく解説

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文化人類学と婚姻規則

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 05:43 UTC 版)

近親相姦」の記事における「文化人類学と婚姻規則」の解説

族外婚」、「族内婚」、および「同姓不婚」も参照 ブロニスワフ・マリノフスキが『未開社会における性と抑圧』(1927年)を書いたころは、近親相姦のタブー外婚制生み出した考えられていた。ブロニスワフ・マリノフスキは、メラネシアでは父親と娘の性関係は外婚規制の対象ではないにもかかわらず問題視されていると指摘する。だが、人類学者にして構造主義者であるクロード・レヴィ=ストロースは、交叉いとこ婚は容認されながらも平行いとこ婚は禁忌扱いされている社会があることに着目し近親相姦禁止族外婚推奨のため、自らの一族女性を他の一族贈与するためであるという説を体系化した。この説における族外婚とは結婚制度における規則であり、それに従うことによって家族間で女性交換が行われ一つ社会築き上げることができるのだと解釈できる。特に家族という概念公的分野にまで持ち込もうとする社会では、このような婚姻規則はより複雑化するわけである。しかし、莫大な財産がある場合このように族外婚行ってしまうと外戚によって一族の財産乗っ取られしまうため、人民に対して絶対的な地位にある場合近親婚が行われる例もある。君主一族における近親婚権力分散を防ぐためと説明されることもあり、倭国大王家新羅王家の慶州金氏はしばし血族結婚が行われていたとされている。一方、この理論貨幣として女性を扱う考えであり、レヴィ=ストロースにとってはこのように女性は高い価値がある主張したつもりなのであるが、女性から見た場合自分達が交換要員として場合によっては全く馴染みがない一族結婚させられるため必ずしも女性にとって良い思想ではなく考え方根本男性優位的な側面がある可能性指摘される日本行われてきた族内婚場合父系と母系区別あやふやになるため、女性継承が必ずしも否定されないという側面存在する近親相姦イメージとは、婚姻秩序基づいた抑圧によるでっち上げに過ぎないという見方存在しドゥルーズ=ガタリは『アンチ・オイディプス』において、母親出自秩序を守るため、姉妹縁組秩序を守るためそれぞれの近親相姦禁止存在する捉えた上で白人主体とする植民者などといった存在接続した原始社会体系革命的な生産的な無意識」こと「欲望する諸機械」との間の境界線として近親相姦イメージ出現しているとして、実際に代替イメージとしての近親相姦を行うことなど不可能であると主張している。大城道則 (2013) は、アクエンアテンが娘であるアンクエスエンパアテンと親子結婚したように古代エジプト王家では近親婚一般的に行われていたが、これを本人たちの性癖よるもの勘違いしてならない注意促している。かつてはブロニスワフ・マリノフスキジョージ・マードックのように近親相姦禁止家族維持不可欠だという研究者もいたが、原田武古代エジプトの話も交えながらこれは単にいかなるありよう理想的かと述べているだけだと指摘するブロニスワフ・マリノフスキは、自分の下で働いていた少年が、父親性的関係持っている少女結婚したいということ援助求められ経緯語っている。遊牧民族では、テント入りきらない家族分かれて別の家族作っていく。ある時、遠方部族交戦し相手の女を略奪して妻にした時、それがかつて別れていった一族の女で兄妹姉弟の関係だったとしても、それは近親相姦はされないことが多い。エマニュエル・トッドは、アラブ世界では内婚制共同体家族という家族形式一般的なのだが、このような世界ではもともと国家成立しにくく、それでもイラクサッダーム・フセイン政権のように部族連合軍隊掌握することで不自然ながら一応は国家成り立っていたのに、アメリカ合衆国イラク侵攻したことで国家自体消滅しイスラム国」が展開する事態になった指摘するまた、エマニュエル・トッドドイツアンゲラ・メルケル首相進め難民の受け入れについて、いとこ婚否定的なドイツ内婚肯定的なシリア人々入れるというのは、たとえ経済的に合理的だとしても人類学的には無謀だとも語っている。 一方中国では父系制社会維持しようとする儒教的観点から、同じ宗族同士同姓婚忌み嫌われ時代があり、この同姓不婚慣習他国家にも影響与え朝鮮高麗王朝は元のクビライ世祖)に同姓不婚制度を守るよう命令を受け、忠宣王も一応はこれに同意した。だが、高麗では巫俗仏教が盛んで儒教的思想馴染みがなかったことなどから、異母兄弟姉妹婚などの族内婚が行われていたため、このような命令発して現実には効果がなかったとされる。だが、李氏朝鮮時代になるとこの状況変化見られ満州族中国征服し清王朝樹立し後に同姓不婚制度廃止した一方で朝鮮では自分たちこそ正統中国文明後継者という自負から小中華思想発展し明王朝時代中国法律模範として同姓同本婚を禁じ、この状況は後の大韓民国引き継がれることとなったまた、日本においても時代経過とともに天皇家近親婚少なくなっていった理由中国同姓不婚制の影響ではないかという見方存在する池田信夫與那覇潤との対談において、中国戦争激しかったので中央集権化進み父系外婚制になった論じたが、與那覇潤はこれに対しあなたは経済学者からそうまとめるのだろうが、日本にも後醍醐天皇など専制目指し君主はいたわけで、その理論では日本中国のような国にならなかったと言うことすんなり説明できないとし、もっと歴史的あるいは社会的な観点大事にすべきだと指摘した上で中国外婚制になったのは科挙影響人材広く求める必要があったことが大きいとしている。エマニュエル・トッドは、外婚制共同体家族地域では共産主義受け入れられやすく、このような家族制度の下にあるロシア中華人民共和国のような地域では共産主義から実質的に離脱したとしてもその傾向残り続けるとし、このような一致理由については権威主義的な親子関係の下で兄弟平等主義的に扱われるからだと推測している。 また、婚姻による親族関係血族ではなく姻族呼ばれるのだが、姻族同士婚姻について禁じ社会もあり、日本においては義理直系親族結婚を行うことが不可となっている。藤原薬子が婿である安殿親王性的関係結んだところ、これを知った安殿親王父親である桓武天皇によって彼女は宮廷追放されてしまったらしいという話もあるが、父親の死後に安殿親王天皇即位し平城天皇となると彼女は尚侍として宮中戻された。川喜田二郎1950年代ヒマラヤチベット人調査行ったが、父親と息子が妻を共有した母親と娘が夫を共有したりするなどといった慣習のあるの人に、日本父系並行いとこ婚認められている事実を話すと、日本はなんと逸脱した地域なのかといった回答をされたことを述べる。父親の死後に継母結婚したり、兄弟の死後に彼らの未亡人結婚したりするのは漢では問題視される行動であったが、匈奴では認められていた慣習であった。大周の聖神皇帝となった武則天は、唐の太宗の後宮だった経験ありながら高宗皇后になった女性であるが、遠山美都男によれば太宗死後に感業寺で偶然この二人出会ったのだとかいう話は間違いなく嘘で、実際のところ太宗存命中からこの二人愛し合っており、父親死んで高宗自分気持ち抑えられなくなったではないか推測している。イスラーム教では、『クルアーン』において乳母娶ることや乳兄弟姉妹間の結婚禁止されている。

※この「文化人類学と婚姻規則」の解説は、「近親相姦」の解説の一部です。
「文化人類学と婚姻規則」を含む「近親相姦」の記事については、「近親相姦」の概要を参照ください。

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