文化人類学的理論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 14:23 UTC 版)
「インセスト・タブー」の記事における「文化人類学的理論」の解説
構造主義四天王の一人クロード・レヴィ=ストロースは『親族の基本構造』において、族外婚の推奨のために近親相姦を禁止したと主張した。なお、これは彼自身のオリジナルと考える人もいるが、マーガレット・ミードは既にニューギニアのアラペシ族へのインタビューで「義理の兄弟ができる」ためだという言葉を得ており、レヴィ=ストロース自身もこの言葉を引用している。レヴィ=ストロースが提唱したのは、結婚には自らの一族の女性を他の一族に贈与するという目的があり、それは何らかの意味で常に「交換」に他ならないと規定し、それらを二者の間で資源の直接交換を伴う交換である「限定交換」と、二者の間で直接の資源のやり取りを含まない交換である「一般交換」に分類し、その規則性とメカニズムを解明した点である。この説では、原始的社会では経済も理由も親戚関係で組織されるために婚姻規則は原始的社会では複雑に入り組むのであり、逆に生産と経済が進んだ世界では公的分野での親戚関係の重要性が低くなるため親戚関係の重要性がどんどん低くなると説明できる。 この学説では人類社会において核家族以外の親族一般にまで近親相姦のタブーが適用される理由について説明が可能となる。近親相姦の事例がなぜ多いのかに対しても、それは自然のレベルによらない合理的な禁令であるためと説明できる。また、厳しい処罰が必要な理由はインセスト・タブー自体の目的が「交換」のためだけであり、侵犯の可能性は常に残るためそのような厳格な姿勢をとらなくてはならないと説明できる。さらに、王族や神々が平然と近親相姦を行うのは「交換」のサイクルから外れた絶対者であるからとして説明できる。 しかし、婚姻制度の研究上いくら画期的でもレヴィ=ストロースの意見には批判もある。根本的な指摘として、吉本隆明は人間の性は幻想的領域を保有しており、レヴィ=ストロースが文化と呼ぶものもまた幻想と切り離せないとして、「人間」と「自然」を彼の考えるようにはっきり区分できるのかと疑問を呈する。山内昶は、レヴィ=ストロースが人間中心主義的な発想からサルには性的規則がないとしたのは間違いであったとするが、同時にサルのインセスト・アヴォイダンスには社会的体系に基づく複雑性や違反した場合の制裁が人間の近親相姦禁忌と違って存在しないという非連続性が存在していたのもまた事実であり、完全な間違いとは言えないであろうと指摘している。 また、今村仁司は『交易する人間』において、資本主義のために失われてしまったものの、元々は「交換ならざる贈与」が存在していたため、レヴィ=ストロースが同一のものとみなした「交換」と「贈与」の概念は本来は峻別されるべきであるとする。 一方、フェミニズム運動からは別の視点から批判された。上野千鶴子は、『女は世界を救えるか』において、フェミニスト人類学者の観点からはなぜ女が交換要因にされなければならないのかと批判があることを指摘する。ジュディス・ハーマンは、この論は本来的に男性と女性に関して区分はないはずなのに、実際には男性優位で家父長制度になることを踏まえ、女性が家父長の所有物とみなされるため、父親と娘と関係することは禁じられる度合が相対的に低く、実際の事件で圧倒的に父親と娘の近親姦が報告される事実と符合すると指摘する。 この理論に近い説としては、ジョルジュ・バタイユの説がある。バタイユは『エロティシズムの歴史』において、大体のところはレヴィ=ストロースの説によりながら、自分に属しているものを自らに禁じる者が行う留保により、尊重と慎みと遠慮が暴力性に打ち勝つような世界の雰囲気を作り出すために、近親相姦のタブーは存在するとみなし、近親相姦を行わないことによって人間性というものを生み出しているとした。 エマニュエル・トッドはレヴィ=ストロースが重視した母方交叉いとことの結婚は中国では統計的には何らかのシステムがあると考えるにはあまりにも少なく、父方いとことの結婚がインドでもアラブ圏でも頻繁に見られることから、全面的交換というのは成り立たないと指摘している。
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