文化人・重遠
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/24 11:31 UTC 版)
女権拡張に好意的だったことから、重遠は女好きと皮肉られることがあった。留学時代に記していた『英独観劇日記』にはマダム・バタフライの三浦環に次第にひきつけられてきたと書いているが、これはほぼ同時期にオペラ留学していたドイツから戦火を避けてイギリスに移り、そこでの成功を背景アメリカに移りボストンで初めてオペラ『蝶々夫人』を演じて一斉を風靡した三浦の足跡を、まるで追うようにして穂積もまたイギリス経由でボストンに至ったことを述べたものである。1942年の非常時にこの本を刊行したことについて、東宝の渋沢社長から要求があったというが、大村敦志は非常時だから、余裕を持とうと思ったのだろうとしている。戦後に出版した『歌舞伎思出話』には、二代目市川左團次を贔屓にしていたことなどが綴られている。 重遠は古今の百人一首を蒐集していたが、戦災で焼失した。また重遠は古い川柳や笑い話に興味があり、時に講演に応用したりした。和歌も詠んだ。自由画、通俗文学、朝鮮文化、聖書、フランス語などにも興味を持った。
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