文化人の街
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 18:53 UTC 版)
1958年の売春防止法施行後は飲み屋が密集する街となり、「新宿ゴールデン街」と呼ばれるようになった。なお、1978年の住居表示実施にともない、従来の三光町という地名は消滅し、歌舞伎町1丁目と新宿5丁目とに分割再編された。新宿ゴールデン街を含む一帯は、歌舞伎町1丁目の一部となった。 新宿ゴールデン街の店は、文壇バー、ゲイバー(特に女装バー)、ボッタクリバーの3つに分類できるとも言われた。店内は3坪または4.5坪と狭く、カウンターに数人並ぶと満席になる。文壇バーには、作家やジャーナリスト、編集者らが集まり、熱い議論や喧嘩を繰り広げる場所でもあった。バーが営業を始める時刻以降に行けば、誰かしら著名ライターに逢える地域でもある。1976年には、小説家の中上健次が第74回芥川龍之介賞を、ノンフィクション作家の佐木隆三が第74回直木三十五賞を、それぞれ同時に受賞したが(いずれも1975年度下半期受賞)、両名とも新宿ゴールデン街の常連客だったため、この街の名が全国的に報道された。その結果、新宿ゴールデン街は文化人の集う街として広く知られるようになり、「文化人たらんとする人間にとってゴールデン街に馴染みの店を持つことは必須」とまで言われるようになった(なお、常連達によって話されている内容は非常に専門的であることを覚悟して行く必要がある)。また、作家、ジャーナリスト、編集者といった文筆業関係者だけでなく、映画監督や劇団の演出家、男優、女優、モデルなどにも常連客が多かった。 この頃の常連客としては、漫画家の赤塚不二夫、富永一朗、滝田ゆう、はらたいら、画家の岡本太郎、イラストレーターの黒田征太郎、デザイナーの長友啓典、工芸家の由水常雄、華道家の安達曈子、作曲家の武満徹、詩人の清水昶、小説家の色川武大、開高健、田中小実昌、長谷川四郎、団鬼六、志茂田景樹、北方謙三、五木寛之、大沢在昌、矢野徹、吉行淳之介、安岡章太郎、遠藤周作、瀬戸内寂聴、野坂昭如、映画監督の大島渚、若松孝二、神代辰巳、撮影監督の姫田真佐久、演出家の唐十郎、俳優の菅原文太、原田芳雄、石橋蓮司、松田優作、緑魔子、高田純次、三國連太郎、江藤潤、落語家の初代林家三平、歌手のなぎら健壱、プロデューサーの佐藤剛、評論家の大宅壮一、目黒考二、力士の鷲羽山佳和、などが知られている。これらの常連客は、やがて新たな別の文化人を伴って訪れるようになるため、客層のディープ化によりいっそう拍車がかかった。たとえば、画家の岡本太郎は、小説家の司馬遼太郎が上京する度に、ともに新宿ゴールデン街へ繰り出していた。司馬だけでなく、岡本は他のさまざまな文化人を新宿ゴールデン街に誘っていた。日本国外からも文化人が訪れるようになり、特に映画監督のクリス・マルケル、ヴィム・ヴェンダース、侯孝賢、テオ・アンゲロプロス、にいたっては、来日する度に必ず毎回新宿ゴールデン街を訪れるほどであった。 さらに、ジャーナリストの岡留安則、立花隆、声優の柴田秀勝、劇団椿組の外波山文明、前衛芸術家の永寿日郎、コメディアンの内藤陳、といった著名人が経営するバーも数多く営業していた。また、新宿ゴールデン街のバーで働いていた者の中からも、歌人の俵万智、小説家の馳星周、社会学者の三橋順子、といった著名な活躍をする者が現れた。また、「マレンコフ」と呼ばれていた流しの加藤武男にも注目が集まった。 このように、多様な文化人が集まったことから、サブカル文化やアングラ芸術の発信地となっている。この街を嚆矢とする文化、生活習慣、芸術運動なども多く、レンタルカフェやPicture Yourself Sound Schoolなどが挙げられる。なお、文化人だけでなく政界や官界、財界の関係者も数多く通っており、実業家の田辺茂一、労働運動家の山岸章、などが常連として知られている。さらに、政治活動家の東郷健が経営するバーも存在した。また、バーを経営していた長谷百合子が第39回衆議院議員総選挙で当選するなど、政治家として活躍する者も現れた。
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