専制体制の動揺(1894年 - 1905年)
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「ロシア帝国の歴史」の記事における「専制体制の動揺(1894年 - 1905年)」の解説
詳細は「ニコライ2世 (ロシア皇帝)」、「日露戦争」、「ロシア第一革命」、および「露清銀行」を参照 1894年10月20日にアレクサンドル3世が死去し、ニコライ2世(在位1894年 - 1917年)が即位した。ニコライ2世は引き続きヴィッテを重用した。ヴィッテは農村共同体を解体して市場経済を導入することにより農民の自主性を促す農業改革を構想するが、貴族層の強い抵抗を受けて頓挫しており、1903年に解任された。20世紀に入ると、再び農民暴動が増加し始め、さらに1900年から1903年にかけて恐慌も起った。労働運動と学生運動が活発化するようになり、1880年代以降なりを潜めていた要人暗殺テロも発生した。 自由主義者たちはアレクサンドル2世の大改革の際に設置されたゼムストヴォ(地方自治機関)を中心に地方代表の中央政治機関への政治参加を求める運動を続け、1904年のゼムストヴォ大会で立憲制を要求するまでになった。一方、ナロードニキ運動の流れをくむ社会主義者たちは社会革命党(エスエル)を結成し、全ての土地を実際に働く者たち、すなわち農民に分配する「土地社会化」を主張した。 ロシアにおけるマルクス主義の受容はナロードニキ運動と決別したプレハーノフに始まる。マルクス主義者たちは革命は農民ではなく都市労働者に依拠すると唱え、1880年代後半から1890年代にかけて各地に「闘争同盟」が組織された。1898年にミンスクで社会民主労働党創立大会(英語版)が開かれたが、直後に当局の弾圧を受けて壊滅状態に陥った。レーニンが党再建のイニシアチブをとり、1903年にブリュッセルで第2回党大会(英語版)を行うが、ここで社会民主労働党は漸進主義的なメンシェヴィキ(少数派)とより急進的なボリシェヴィキ(多数派)に分裂する。マルトフ、プレハーノフらのメンシェヴィキはロシアの労働者階級は未だ発展途上にあり、社会主義は資本主義を経た後に実現すると信じており、このため、彼らはブルジョワ的自由主義勢力と協調する傾向があった。レーニン率いるボリシェヴィキは党の規律を強固なものにするために職業革命家による少数のエリートからなる指導部を形成して、権力を掌握するためにプロレタリアート階級の前衛として行動することを主張した。 対外的にはロシアは東アジアへの進出を強めている。日清戦争(1894年 - 1895年)に勝利した日本に対して、1895年にフランス、ドイツとともに三国干渉を行って遼東半島の割譲を放棄させ、1898年にロシアが旅順、大連を清から租借し、旅順要塞を建設して太平洋艦隊の拠点とした。1900年に義和団事件が起こるとロシアは大軍を送り込み、満州を軍事占領した。 朝鮮半島の権益を巡ってロシアと日本は対立した。日本は三国干渉以来、ロシアを仮想敵国として軍備を増強しており、1902年にロシアの南下を警戒するイギリスと同盟を結びロシアとの対抗を企図した(日英同盟)。ロシアは日本からの満州撤兵要求を強硬に拒否して日露交渉は決裂、1904年1月27日(新暦2月8日)に日露戦争(1904年 - 1905年)が勃発した。 ロシアは陸海軍ともに日本を凌駕する兵力を有していたが、この戦争はロシア人の多くにとって関心の薄い「人気のない戦争」でもあり士気も上がらなかった。ロシア陸軍は日本陸軍の攻勢に押されて後退を繰り返しており、太平洋艦隊の主力(旅順艦隊)は日本の連合艦隊によって旅順に封じ込められてしまう。1904年12月(新暦1905年1月)に旅順要塞が陥落して旅順艦隊は壊滅した。1905年2月(新暦3月)には陸上における決戦となった奉天会戦でもロシア軍は敗れて更なる後退を余儀なくされた。そして、5月に日本海海戦でバルチック艦隊がほぼ全滅する惨敗を喫する。この時点で日本はほぼ国力を使い果たし、ロシアも国内の動揺によって戦争継続が困難になっていた。 日露戦争の敗勢はツァーリ体制にとって大きな打撃となり、反乱の可能性が増大した。1905年1月9日、皇帝への請願の為にサンクトペテルブルクの冬宮に向かっていたガポン神父に率いられた群衆に対してカザーク兵が発砲して多数の犠牲者を出す、血の日曜日事件が起こった。この虐殺にロシアの大衆は激昂し、抗議のゼネストが全国に広がった。 これが1905年革命(第一革命)の始まりとなった。1月に皇帝の叔父でモスクワ総督のセルゲイ大公が暗殺され、6月には黒海艦隊の戦艦ポチョムキンで反乱が起こる。各都市に社会主義者たちが指導するソビエト(労働者評議会)が現れ、自由主義者たちも立憲政治を要求する運動を広げた。8月に政府は審議権のみを有する国会(ドゥーマ)の創設を含む改革案を発表して事態の鎮静化を図るが、国民は納得せず、ゼネストが拡大してロシアは麻痺化し、政府は絶望的状態になった。 ニコライ2世はヴィッテを再起用して戦争終結に当たらせ、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの仲介により、8月(新暦9月)にポーツマス条約が締結された。ロシアは賠償金の支払いは拒絶したが、朝鮮半島での日本の権益を認め、南樺太の割譲と遼東半島南部の租借権および長春 - 大連間鉄道の譲渡を余儀なくされた。 ポーツマスから帰国したヴィッテは国内の事態を収拾するためニコライ2世に国民への大幅な譲歩を進言した。1905年10月17日、ニコライ2世は十月詔書の発布を余儀なくされ、この詔書により、人格の不可侵、信教・言論・集会・結社の自由が認められた。8月に創設が決められていたドゥーマの選挙権が拡大された上に、如何なる法律もドゥーマの承認なく施行できなくなった。自由主義者はこれを歓迎したものの、社会主義者はこの妥協は不満足なものであるとして拒絶し、12月にモスクワで大規模な蜂起(英語版)を起こしたが、政府軍によって制圧された。体勢を立て直した政府が弾圧を強化して、事態は沈静化に向かった。
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