専制体制の動揺とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 専制体制の動揺の意味・解説 

専制体制の動揺(1894年 - 1905年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:42 UTC 版)

ロシア帝国の歴史」の記事における「専制体制の動揺(1894年 - 1905年)」の解説

詳細は「ニコライ2世 (ロシア皇帝)」、「日露戦争」、「ロシア第一革命」、および「露清銀行」を参照 1894年10月20日アレクサンドル3世死去しニコライ2世在位1894年 - 1917年)が即位したニコライ2世引き続きヴィッテ重用したヴィッテ農村共同体解体して市場経済導入することにより農民自主性促す農業改革構想するが、貴族層の強い抵抗受けて頓挫しており、1903年解任された。20世紀に入ると、再び農民暴動増加し始め、さらに1900年から1903年にかけて恐慌起った労働運動学生運動活発化するようになり、1880年代以降なりを潜めていた要人暗殺テロ発生した自由主義者たちはアレクサンドル2世大改革の際に設置されゼムストヴォ地方自治機関)を中心に地方代表の中央政治機関への政治参加求め運動続け1904年ゼムストヴォ大会で立憲制要求するまでになった一方ナロードニキ運動流れをくむ社会主義者たちは社会革命党エスエル)を結成し全ての土地実際に働く者たち、すなわち農民分配する土地社会化」を主張したロシアにおけるマルクス主義受容ナロードニキ運動決別しプレハーノフに始まる。マルクス主義者たちは革命農民ではなく都市労働者依拠する唱え1880年代後半から1890年代にかけて各地に「闘争同盟」が組織された。1898年ミンスク社会民主労働党創立大会英語版)が開かれたが、直後当局弾圧受けて壊滅状態陥ったレーニンが党再建イニシアチブをとり、1903年ブリュッセル第2回党大会英語版)を行うが、ここで社会民主労働党漸進主義的なメンシェヴィキ少数派)とより急進的なボリシェヴィキ多数派)に分裂するマルトフプレハーノフらのメンシェヴィキロシア労働者階級未だ発展途上にあり、社会主義資本主義経た後に実現する信じており、このため、彼らはブルジョワ自由主義勢力協調する傾向があった。レーニン率いボリシェヴィキは党の規律強固なものにするために職業革命家による少数エリートからなる指導部形成して権力を掌握するためにプロレタリアート階級前衛として行動することを主張した対外的にはロシア東アジアへの進出強めている。日清戦争1894年 - 1895年)に勝利した日本に対して1895年フランスドイツとともに三国干渉行って遼東半島割譲放棄させ、1898年ロシア旅順大連清か租借し旅順要塞建設して太平洋艦隊拠点とした。1900年義和団事件が起こるとロシア大軍送り込み満州軍事占領した。 朝鮮半島権益巡ってロシア日本対立した日本三国干渉以来ロシア仮想敵国として軍備増強しており、1902年ロシア南下警戒するイギリス同盟を結びロシアとの対抗企図した(日英同盟)。ロシア日本からの満州撤兵要求強硬に拒否して日露交渉決裂1904年1月27日新暦2月8日)に日露戦争1904年 - 1905年)が勃発したロシア陸海軍ともに日本凌駕する兵力有していたが、この戦争ロシア人多くにとって関心の薄い「人気のない戦争」でもあり士気も上がらなかった。ロシア陸軍日本陸軍攻勢押され後退繰り返しており、太平洋艦隊主力旅順艦隊)は日本連合艦隊によって旅順封じ込められてしまう。1904年12月新暦1905年1月)に旅順要塞陥落し旅順艦隊壊滅した1905年2月新暦3月)には陸上における決戦となった奉天会戦でもロシア軍敗れて更なる後退余儀なくされた。そして、5月日本海海戦バルチック艦隊がほぼ全滅する惨敗喫する。この時点日本はほぼ国力使い果たしロシア国内動揺によって戦争継続困難になっていた。 日露戦争敗勢ツァーリ体制にとって大きな打撃となり、反乱可能性増大した1905年1月9日皇帝への請願為にサンクトペテルブルク冬宮向かっていたガポン神父率いられ群衆に対してカザーク兵が発砲して多数犠牲者を出す、血の日曜日事件起こった。この虐殺ロシア大衆激昂し抗議ゼネスト全国広がった。 これが1905年革命第一革命)の始まりとなった1月皇帝叔父モスクワ総督セルゲイ大公暗殺され6月には黒海艦隊戦艦ポチョムキン反乱が起こる。各都市社会主義者たちが指導するソビエト労働者評議会)が現れ自由主義者たちも立憲政治要求する運動広げた8月政府審議のみを有する国会ドゥーマ)の創設を含む改革案を発表して事態鎮静化を図るが、国民納得せず、ゼネスト拡大してロシア麻痺化し政府絶望的状態になったニコライ2世ヴィッテ再起用して戦争終結に当たらせ、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルト仲介により、8月新暦9月)にポーツマス条約締結された。ロシア賠償金の支払い拒絶したが、朝鮮半島での日本権益認め南樺太割譲遼東半島南部租借および長春 - 大連鉄道譲渡余儀なくされた。 ポーツマスから帰国したヴィッテ国内事態収拾するためニコライ2世国民への大幅な譲歩進言した。1905年10月17日ニコライ2世十月詔書発布余儀なくされ、この詔書により、人格不可侵信教言論集会・結社の自由認められた。8月創設決められていたドゥーマ選挙権拡大された上に、如何なる法律ドゥーマ承認なく施行できなくなった自由主義者はこれを歓迎したものの、社会主義者はこの妥協不満足なのであるとして拒絶し12月モスクワ大規模な蜂起英語版)を起こしたが、政府軍によって制圧された。体勢立て直した政府弾圧強化して事態沈静化向かった

※この「専制体制の動揺(1894年 - 1905年)」の解説は、「ロシア帝国の歴史」の解説の一部です。
「専制体制の動揺(1894年 - 1905年)」を含む「ロシア帝国の歴史」の記事については、「ロシア帝国の歴史」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「専制体制の動揺」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「専制体制の動揺」の関連用語

専制体制の動揺のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



専制体制の動揺のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのロシア帝国の歴史 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS