専制公領の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 03:06 UTC 版)
第四代アカイア公ギヨーム2世・ド・ヴィルアルドゥアン(在位1246年 - 1278年)は、1248年に長らく抵抗を続けていたモネンヴァシア市を征服して半島全土の征服を完了し、また翌1249年にはタイゲトス山脈に新たな居城ミストラスを築城するなどアカイア公国の最盛期を演出した。しかし彼はイピロス専制公国とホーエンシュタウフェン朝のシチリア王マンフレーディ(マンフレート・フォン・ホーエンシュタウフェン)の反ニケア帝国同盟に参加し、ペラゴニアの戦い(1259年)でこれに挑むも敗北し自ら捕虜となってしまう。ギヨームはコンスタンティノポリスを奪回し東ローマ帝国を再建したミハイル8世パレオロゴス帝に自領の内、ミストラス、モネンヴァシア、「大マニ城」、ゲラキの四要塞を割譲する事で漸く釈放された(1262年)。この時獲得した四要塞が再建された東ローマ帝国領ペロポニソスの出発点であり、後のモレアス専制公領もこれを土台として創設されたのである。 辺境の飛び地領土となったペロポニソス半島には皇帝より首長(ケファリ)と呼ばれる軍政官が派遣されて統治に当たった。彼らは日常の行政と、アカイア公国などラテン勢力との戦いに於ける軍指揮の全権を掌握していた。行政府の所在地は当初モネンヴァシアに置かれ、ついでミストラスに移動した。首長は初期、任期一年で毎年任命されていたが、1308年頃から不定期の任期に切り替えられ、就任する人員もパレオロゴス家に近縁の有力者が占めるようになっていった。また、領土の拡大に伴い首長単独での統治は困難になり、より小さい区分の行政・軍事を担当する「局地首長」(メリキ・ケファリ)がその下部組織として創設・任命された。従前の全権軍政官は「全域首長」(カソリキ・ケファリ)としてこれと区別される事になった。 内乱の末に即位した皇帝ヨアニス6世カンダクジノス(1347年 - 1354年)は、国内の分裂を抑え、セルビアなど外国勢力によって侵食される領土を保全する為に帝国の地方行政職を自分の親族で固める方針を採った。ヨアニス6世の次子マヌイル・カンダクジノス専制公は1349年にペロポニソス半島に派遣され、ここにモレアス専制公領が成立する事になった。この時、専制公、尊厳公(セヴァストクラトル)の爵位を与えられて地方領土に派遣された皇族はマヌイルの他にもおり、既に縮小した帝国とはいえ各地に「専制公領」が成立した。しかしその大半は短命ないし一時的なもので終わったのに対し、モレアス専制公領だけは永続的な制度として定着する事になった。
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