大阪電灯時代とは? わかりやすく解説

大阪電灯時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/08 06:19 UTC 版)

安治川発電所」の記事における「大阪電灯時代」の解説

1889年明治22年)に開業した大阪市電力会社大阪電灯では、その電源として西道頓堀や中之島火力発電所建設していたが、明治末期になると設備老朽化し形式多種多様であったため多額経費要する態となった。このため市内散在する旧式発電所整理し折から需要増加対応する大容量発電所建設するという計画立てられた。この新発電所建設にあたり初め市外鷺洲町候補地とされたが、石炭運搬用水利便性考慮して市内安治川上通2丁目当時)が選ばれた。 こうして建設されたのが安治川西発電所である。発電所規模3000キロワット発電機5基体制とされ、1908年明治41年6月発電所新設許可工事施工認可申請し1909年明治42年4月許認可得て着工1910年明治43年8月にまず1・2号発電機が運転を開始するその後同年10月3号機、翌1911年明治44年6月4・5号機がそれぞれ運転を開始して竣工した続いて同一敷地内5000キロワット発電機4基からなる安治川東発電所建設計画された。立案後に宇治川開発手掛ける宇治川電気との間で電力購入契約締結されたため、実際に規模当初計画半分5000キロワット2基体制に縮小されている。1913年大正2年3月着工、翌1914年大正3年4月竣工した1916年大正5年)になり、宇治川電気阪神電気鉄道対する各1万キロワット電力供給決定したため、大阪電灯では安治川東発電所1万2500キロワット発電機2基を増設する計画をまとめ、同年6月当局許認可得た増設分のうち1基を春日出第一発電所振り向けたため1台のみの増設工事進めるが、第一次世界大戦の影響国外メーカー発注した主要機器到着しなくなり工事停滞した送電期日の関係からやむなく資金二重投下して国内メーカーより機器調達し1917年大正6年11月増設工事完成させるが、試運転段階から機器稼働状態は不完全であった。それでも送電期日過ぎているため1918年大正7年3月から使用開始したが、燃焼が不十分で予定の倍以上の石炭消費する上に故障頻発したこのように需要急増最中発電増強遅滞したため電力不足が発生する至りこれまで故障なく稼働していた西発電所についても保守不十分となって故障頻発するようになったその後1920年大正9年11月に東発電所改良工事竣工し稼働状況正常化された。また1921年大正10年2月より西発電所でも微粉炭燃焼装置設置するなどの改良工事施工され旧来よりも良好な成績となった

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大阪電灯時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 06:55 UTC 版)

佐世保電気」の記事における「大阪電灯時代」の解説

佐世保市にて最初に電気事業始めたのは大阪電灯株式会社である。同社大阪市本社を置く電力会社であるが、市内福石免福石町)に佐世保支店置いて事業行っていた。 この大阪電灯は、福岡県門司市(現・北九州市)に対す事業買収の上門司支店設置して1902年明治35年)より供給開始し九州進出果していたが、続いて1903年明治36年10月佐世保市における電気事業認可申請した。その佐世保市では、市営による電灯供給事業計画前身とする民間電灯会社設立発起されており、大阪電灯申請競願となった。さらに長崎市長崎電灯(後の長崎電気瓦斯)も佐世保市への進出を図るが、競願結果大阪電灯営業にあたることとなり、1905年明治38年7月大阪電灯事業許可された。 大阪電灯では1906年明治39年4月電気工事施行認可を受けるとただちに工事開始し同年8月より事業開始した電源市内福石免新設火力発電所佐世保発電所福石町発電所とも)で、蒸気機関原動機としてゼネラル・エレクトリック (GE) 製120キロワット交流発電機2台にて発電事業開業から3か月で4,447灯の電灯供給するまでになった1907年明治40年8月供給増で供給力不足に陥ったため応急措置として発電所発電機をもう1台増設した。その後順調に事業が進むが、1908年明治41年3月になって休灯問題発生する佐世保市軍港があったことから日露戦争中は商業大い栄えたが、反動戦後のこの時期はまったくの不況となってしまっていた。そこで商業組合電灯料金の3割減を要求し始めたのがこの問題発端である。組合大阪電灯佐世保支店の間で交渉が行われたものの、会社側が値下げ要求一切拒否した結果商業組合員が休灯運動起こすに至る。運動組合員演説会宣伝ビラ配布によって一般市民にも波及し当時佐世保支店管内電灯取付数6,328灯のうち、休止申込みは約2,500灯、戸数にして750戸に達した結局会社側が料金を5銭引き下げる妥協し、この問題5月になって解決した。 休灯問題沈静化すると再び新規需要増加し、それに伴って供給力増強が必要となったことから1910年明治43年3月発電所4台目発電機増設している。さらに翌1911年明治44年以降発電所出力530キロワットとされた。

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