大阪電灯時代
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1889年(明治22年)に開業した大阪市の電力会社大阪電灯では、その電源として西道頓堀や中之島に火力発電所を建設していたが、明治の末期になると設備が老朽化し、形式も多種多様であったため多額の経費を要する状態となった。このため市内に散在する旧式発電所を整理し、折からの需要増加に対応する大容量発電所を建設するという計画が立てられた。この新発電所建設にあたり、初め市外の鷺洲町が候補地とされたが、石炭運搬や用水の利便性を考慮して市内安治川上通2丁目(当時)が選ばれた。 こうして建設されたのが安治川西発電所である。発電所の規模は3000キロワット発電機5基体制とされ、1908年(明治41年)6月に発電所新設許可・工事施工認可を申請し翌1909年(明治42年)4月許認可を得て着工、1910年(明治43年)8月にまず1・2号発電機が運転を開始する。その後同年10月3号機、翌1911年(明治44年)6月4・5号機がそれぞれ運転を開始して竣工した。 続いて同一敷地内に5000キロワット発電機4基からなる安治川東発電所の建設が計画された。立案後に宇治川開発を手掛ける宇治川電気との間で電力購入契約が締結されたため、実際には規模が当初計画の半分、5000キロワット2基体制に縮小されている。1913年(大正2年)3月に着工、翌1914年(大正3年)4月に竣工した。 1916年(大正5年)になり、宇治川電気や阪神電気鉄道に対する各1万キロワットの電力供給が決定したため、大阪電灯では安治川東発電所に1万2500キロワット発電機2基を増設する計画をまとめ、同年6月に当局の許認可を得た。増設分のうち1基を春日出第一発電所へ振り向けたため1台のみの増設工事を進めるが、第一次世界大戦の影響で国外メーカーに発注した主要機器が到着しなくなり、工事は停滞した。送電期日の関係からやむなく資金を二重投下して国内メーカーより機器を調達し、1917年(大正6年)11月に増設工事を完成させるが、試運転の段階から機器の稼働状態は不完全であった。それでも送電期日が過ぎているため1918年(大正7年)3月から使用を開始したが、燃焼が不十分で予定の倍以上の石炭を消費する上に故障が頻発した。このように需要急増の最中に発電力増強が遅滞したため電力不足が発生するに至り、これまで故障なく稼働していた西発電所についても保守不十分となって故障が頻発するようになった。 その後1920年(大正9年)11月に東発電所の改良工事が竣工して稼働状況は正常化された。また1921年(大正10年)2月より西発電所でも微粉炭燃焼装置を設置するなどの改良工事が施工され、旧来よりも良好な成績となった。
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大阪電灯時代
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佐世保市にて最初に電気事業を始めたのは大阪電灯株式会社である。同社は大阪市に本社を置く電力会社であるが、市内福石免(福石町)に佐世保支店を置いて事業を行っていた。 この大阪電灯は、福岡県門司市(現・北九州市)に対する事業権を買収の上門司支店を設置して1902年(明治35年)より供給を開始し、九州進出を果していたが、続いて翌1903年(明治36年)10月に佐世保市における電気事業の認可を申請した。その佐世保市では、市営による電灯供給事業の計画を前身とする民間の電灯会社設立が発起されており、大阪電灯の申請は競願となった。さらに長崎市の長崎電灯(後の長崎電気瓦斯)も佐世保市への進出を図るが、競願の結果大阪電灯が営業にあたることとなり、1905年(明治38年)7月大阪電灯に事業が許可された。 大阪電灯では1906年(明治39年)4月に電気工事施行の認可を受けるとただちに工事を開始し、同年8月より事業を開始した。電源は市内福石免に新設の火力発電所(佐世保発電所、福石町発電所とも)で、蒸気機関を原動機としてゼネラル・エレクトリック (GE) 製120キロワット交流発電機2台にて発電。事業は開業から3か月で4,447灯の電灯を供給するまでになった。 1907年(明治40年)8月、供給増で供給力不足に陥ったため応急措置として発電所に発電機をもう1台増設した。その後は順調に事業が進むが、1908年(明治41年)3月になって休灯問題が発生する。佐世保市は軍港があったことから日露戦争中は商業が大いに栄えたが、反動で戦後のこの時期にはまったくの不況となってしまっていた。そこで商業組合が電灯料金の3割減を要求し始めたのがこの問題の発端である。組合と大阪電灯佐世保支店の間で交渉が行われたものの、会社側が値下げ要求を一切拒否した結果、商業組合員が休灯運動を起こすに至る。運動は組合員の演説会や宣伝ビラ配布によって一般市民にも波及し、当時の佐世保支店管内の電灯取付数6,328灯のうち、休止申込みは約2,500灯、戸数にして750戸に達した。結局会社側が料金を5銭引き下げると妥協し、この問題は5月になって解決した。 休灯問題が沈静化すると再び新規需要が増加し、それに伴って供給力増強が必要となったことから1910年(明治43年)3月発電所に4台目の発電機を増設している。さらに翌1911年(明治44年)以降、発電所の出力は530キロワットとされた。
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