大阪電灯の経営
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 06:08 UTC 版)
「宮崎敬介 (実業家)」の記事における「大阪電灯の経営」の解説
宮崎は、1919年から1923年にかけての4年間、社長として大阪の電力会社大阪電灯の経営にあたった。 この大阪電灯は1888年(明治21年)に設立された大阪最初、関西地方で見ても2番目の電力会社である。大正前期にかけて、大阪電灯は順調にその規模を拡大し資本金2160万円の会社に発展するが、一方で大阪商船系の新興電力会社宇治川電気の出現や、大阪市内電灯市場の独占と引き換えに市当局から強い規制を課される報償契約の締結など、会社経営には難題がつきまとった。その中で会社を主導していたのが設立時から長く社長を務める土居通夫であった。ところが大阪財界の重鎮であった土居が死去すると対外交渉役が不在となり、2代目社長の永田仁助はその代役たり得ず市当局との増資問題をめぐる交渉に失敗し1918年10月在職1年で辞任してしまった。 1918年12月23日、宮崎や田所美治らが大阪電灯取締役に新任され、うち田所が第3代社長に就任した。しかし田所も前任の永田と同様に短命で、翌1919年10月に辞任してしまう。そこで同年12月、その跡を襲って宮崎が第4代社長に就いた。ただし取締役の島徳蔵(1910年から監査役、1916年末以降取締役)が会社の中心人物であり、宮崎自身も島を「真の執権」であると語っている。 宮崎が大阪電灯に入ったこの時期、会社では石炭価格の暴騰により主電源である火力発電所の発電費が膨張、利益金が大幅に減少して経営悪化が深刻化していた。1920年上期の決算ではついに赤字決算に転落している。経営難は、電気料金の値上げが大阪市当局に認められず不可能であったことも一因である。また永田社長の時代に申請していた倍額増資が市の認可を得られておらず資金繰りに窮しており、島からの資金融通や島への信用に基づく銀行からの融資でかろうじて営業を継続する状態であったという。宮崎の社長就任後、1920年5月市の承認を得て1年間の期限付きながら電気料金の値上げを実施、12月には交渉の末に倍額増資を市に認めさせることにも成功。発電費の減少もあり赤字転落は1期のみで済み1920年下期以後会社の業績は回復に向かった。 大阪電灯以外では、同社と京都電灯・北陸電化(社長山本条太郎)の3社の関係者により北陸・関西北部での水力開発を目指し起業された日本水力にも参加し、1919年10月の会社設立とともに同社の副社長に就任した(社長は山本条太郎)。設立半年後の戦後恐慌を機に日本水力には福澤桃介率いる木曽電気興業・大阪送電との合併話が浮上、1921年2月合併成立の運びとなり資本金1億円の大規模電力会社大同電力が発足する。社長には福澤桃介が就き、宮崎は合併成立を控えた1920年11月大同電力の副社長に選ばれた。以後、1928年10月の死去時まで在任した。なお、当初副社長は宮崎1名のみであったが、1924年に増田次郎が追加され、増田の社長昇格後の1928年8月には村瀬末一・太田光凞も加えられた。ただし宮崎と異なり他の3名は代表権のある代表取締役副社長である。 一方の大阪電灯では、1922年1月、報償契約の規定によって事業を市営化する権利が発生したことから、大阪市当局との間で市営化交渉が始まった。市と会社は事業買収価格や買収の範囲をめぐって1年以上にわたって対立を続ける。市との交渉は初め常務の河合鼇が担当していたが、河合が7月に病臥したため社長の宮崎が自ら交渉にあたる。しかし9月宮崎も発病したため、元技師長の木村駒吉が交渉の席に着くことになった。1923年1月、交渉開始から1年を過ぎ当事者間以外にも問題が広がって収拾がつかなくなったことから大阪府知事井上孝哉が仲介に入る。知事の斡旋で間もなく市営化の合意が成立、その後大阪電灯と大同電力の間に紛争が起きたがこれも知事の調停で処理され、6月21日大阪市と大阪電灯・大同電力の間で事業譲渡契約が締結に至った。 1923年10月1日、大阪電灯の事業は大阪市に引き継がれ(大阪市営電気供給事業)、市営化対象から外れた残余事業についても大同電力へと引き継がれた。そして同日、大阪電灯は解散した。宮崎は解散時まで社長に在任し、解散と同時に清算人に就任している。
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