大脇村・桶廻間村と「おけはさま」とは? わかりやすく解説

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大脇村・桶廻間村と「おけはさま」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 00:16 UTC 版)

桶狭間の戦いの戦場に関する議論」の記事における「大脇村・桶廻間村と「おけはさま」」の解説

このうち主戦地のおおむね東側にあり、現在の豊明市栄町一帯にほぼ該当する大脇は、13世紀後半にその初出をみて以来1875年明治8年)まで存続し尾張国知多郡自然村で、伝承によれば鎌倉時代1275年建治元年)に「英比荘」(現知多郡阿久比町付近)から移住してきた大脇太郎によって開かれたとされる古い土地柄である。 1354年5月16日文和3年正平9年4月23日)の日付を持つ『熱田社領目録案』(猿投神社文書)の「愛知郡」の項に「大脇鄕」がみられること、1391年6月14日明徳2年元中8年5月12日)に室町幕府管領細川頼元土岐満貞宛てた施行状』(醍醐寺文書)には「尾張国熱田座主同國大脇鄕以下六ヶ所」を理性院雑掌沙汰するとあって大脇郷が前年熱田神宮寺の座主となった醍醐寺理性院僧正宗助(72醍醐寺座主)の所領となったことを示していることから、大脇郷は当初愛知郡属し熱田もしくは熱田神宮寺の所領であった考えられている。その後1505年永正2年)に大脇郷の集落内に曹洞宗寺院として清涼山曹源寺開創天文年間1532年 - 1555年)には水野信元配下にあった梶川左衛門秀盛が居城したといわれる大脇城が同じく集落近く存在し1551年1月7日天文19年12月1日)の日付を持つ今川義元判物では大脇郷が数年来丹羽隼人佐の知行地であることを示し桶狭間の戦い経て尾張国織田信雄支配下置かれ1584年天正12年)頃には矢野弥右衛門知行地となっている。 ところで、太閤検地尾張国では1592年天正20年))によって村切が行われるまで、まずもって村域とは明確なものではなかったことに注意が必要である。室町時代まで大脇郷は、境川水系正戸川に近い沖積平野豊明インターチェンジの南付近)に人家点在する小規模な集落であったようだが、その村域江戸時代以降のように明確なものでは当然無く集落から3キロメートルほど北西にいったあたりのやや遠隔地となる山間部、すなわち主戦地の東側相当し後年大脇所属することになる一帯室町時代当時大脇どのような関わり持っていたかを示す、いかなる史料伝承知られていない一方廻間山中にあって大脇郷と比べると距離としては合戦地のより近く存在しており、伝承では今川方を酒で饗応したのもこの村の住民であったとされる。この主戦地のおおむね西側相当する廻間は、1340年代頃に当地流入した南朝落人によって開かれたとする伝承を持つで、1892年明治25年9月13日知多郡共和村合併するまで存続した、尾張国知多郡自然村行政村である。現在の名古屋市緑区有松町大字桶狭間武路町桶狭間北2丁目桶狭間北3丁目、桶狭間桶狭間上の山桶狭間切戸桶狭間清水山桶狭間神明桶狭間南桶狭間森前清水山1丁目、清水山2丁目南陵野末町などがこれに該当する古くは「洞迫間(ほらはさま)」・「公卿迫間(くけはさま)」・「法華迫間(ほけはさま)」などの漢字当てられていたといわれるが、一村立て名として登場するのは備前検地1608年慶長13年))の「廻間」が史料初出とされる大脇近隣の村々と比べる廻間は、近世以前時代において、その存在や名が示されるほどの同時代の史料皆無であり、岩滑城主であった中山氏が「辺・北尾・洞狭間」を領したとする寛政重修諸家譜寛政年間1789年 - 1801年))のような近世以降史料によって知られるのみである。もとより山がちであって周辺地域より開発遅れたことに理由考えられるほか、村民らが落人出自であることをひた隠しにし、人々移動他村との交流がほとんどなされず山奥閉鎖的退嬰的な生活を続けてきたことにより、その実情が外部知られにくかったことも理由であるとされる。 この2それぞれ北部またがり桶狭間の戦い舞台地となった山間一帯とは、室町時代の頃までは大脇郷とも洞迫間とも接点持たない漠然とした無主地無名であった可能性大きい。検地が行われる以前において、荘園制名残によって人と土地支配は別であったこと、そして山林原野に名が与えられることはほとんど無かったからでもある。桶狭間の戦い直後出され判物感状の中で今川氏真は、このたびの「不慮之儀」が生じた舞台地について、「尾州一戦の砌(みぎり)」、「尾州に於て…」といった漠然とした範囲を指す表現使用している。今川氏内部事態把握進んでいなかったかといえばそうでもなく、同時期に「去る五月十九日尾州大高口において」戦功挙げた鵜殿十郎三郎賞し、「大高沓掛落せしむといえども鳴海一城堅固にあい踏」んだ岡部元信戦功賞していることから、今川氏真はじめ駿府にも地理的状況詳細に伝わっていたことは明らかである。そして戦いそのものを「鳴海一戦」と表現している。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}これらのことから、「おけはさま」という地名が、この当時存在していなかったか、あるいは存在していても戦い舞台地として認識されていなかったことが考えられるのである。[独自研究?] 少し時代が下ると、「尾州ヲケハサマト云処」で戦役があったことを記す『足利季世記』(安土桃山時代のような史料登場してくる。ところで、この「ヲケハサマ」が近隣集落である洞迫間意識していったものであるかどうか判然としない。『信長公記』の「おけはざま山」、『成功記』の「峡之山」も同様であるが、これらの「おけはさま」とは、洞迫間あるいは廻間という一村の名とは性質異な呼称であるとする考えかたがある。中世時代地名名は一般に江戸時代それより広範囲を指す場合多かったといわれ、すなわち「おけはさま」なる地名また、元来大脇郷と洞迫間をまたぐ山間部一帯漠然と指すものではなかったかとする説である。そして、それまで曖昧な広範囲指していた地名が、検地機会名などに冠されることも多くあったといい、主戦地の西側にあった小集落もこれにちなん初め正式に廻間という名が名付けられ可能性があることを、名古屋市桶狭間古戦場調査委員会示唆している。「おけはさま」が洞迫間あるいは廻間の名の由来となったとする理解である。 しかし、ある土地に名が発祥するのは山林原野より先に人の住まうところであるのが自然でもあり、「オケハサマ」もしくはそれに近い呼び名近隣集落が「おけはさま」の地名元になった可能性考えられる。洞迫間は、史料上にこそ登場しないものの、桶狭間の戦い当時にはすでに神明社があり(今川方の瀬名氏俊戦勝祈願をしたといわれる)、法華寺もしくは和光長福寺があったとされ(今川義元首実検なされたといわれる)、社寺よりどころとした村落呼べるほどの人家集まりがあった可能性は高い。そして野渡は、長年伝承の域を出なかった「洞迫間」という名が、中山氏末裔とされる人物からの聞き取りにより実際に呼称されていたことを確認したとしている。洞迫間あるいは廻間が「おけはさま」の名の由来となったとする理解である。 なお、漠然と広がる「おけはさま」のうち大脇北部相当する東側山間部は、はるか後年江戸時代後半において「屋形はさま」という通称をもって知られることになる。「屋形はさま」の初出は『道中回文図絵』(1664年寛文4年))とみられるが、『今川義元迫間合戦覚』(1706年宝永3年)頃)には、元もと大脇のうち「迫間」と呼ばれた地に、今川義元布陣したことからそれ以降屋形迫間(やかたはさま)」と呼ばれるようになったとある。現在も字名として残る豊明市栄町舘および南舘の「やかた」は、江戸時代呼称である「屋形はさま」を継承するもので、その由来は、今川方がこの地に「陣屋形」を設けたからだとも(『桶狭間合戦記』(1807年文化4年)))、駿府今川屋敷の主お屋形様」がこの地に本陣構えたからだともいわれるが、いずれにしても桶狭間の戦いにちなん名付けられたものと考えられる。『張州府志』(1752年宝暦2年))もまた、かつての「峡(おけはさま)」は今は「舘峡(やかたはさま)」と呼ばれているといい、『蓬州旧勝録』(1779年安永8年))もやはり「屋形挾間(やかたはさま)」とは「挾間(おけはさま)」のことを指すと述べている。そして『尾張国地名考』(1836年天保7年))は、大脇の「屋形はさま」で行われたはずの合戦桶狭間の名で呼ぶのは不審であるとまで述べ大脇とはかつて広範囲地域占めたであって廻間も「屋形はさま」も落合かつては大脇の字であったのが天正年間1573年 - 1592年)にそれぞれ独立したことから、とりあえ廻間合戦と呼ぶことにしたのであろうとする山本格安の説を紹介している。 野渡は南舘が1951年昭和26年以降恣意的桶狭間の名を使用するようになったとしているが、少なくとも江戸時代中期以降、「屋形はさま」と呼ばれる地がかつて「おけはさま」もしくはその一部であったという認識一般的であったようである。名古屋市桶狭間古戦場調査委員会は、主戦とされる一帯それぞれ廻間大脇村域明確に分離された後も、主戦一帯を「おけはさま」そのものとして呼ぶ慣習残っていたとみるのが自然ではないかとしている。

※この「大脇村・桶廻間村と「おけはさま」」の解説は、「桶狭間の戦いの戦場に関する議論」の解説の一部です。
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