大脇村・桶廻間村と「おけはさま」
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「桶狭間の戦いの戦場に関する議論」の記事における「大脇村・桶廻間村と「おけはさま」」の解説
このうち、主戦地のおおむね東側にあり、現在の豊明市栄町一帯にほぼ該当する大脇村は、13世紀後半にその初出をみて以来1875年(明治8年)まで存続した尾張国知多郡の自然村で、伝承によれば鎌倉時代の1275年(建治元年)に「英比荘」(現知多郡阿久比町付近)から移住してきた大脇太郎によって開かれたとされる古い土地柄である。 1354年5月16日(文和3年、正平9年4月23日)の日付を持つ『熱田社領目録案』(猿投神社文書)の「愛知郡」の項に「大脇鄕」がみられること、1391年6月14日(明徳2年・元中8年5月12日)に室町幕府管領細川頼元が土岐満貞に宛てた『施行状』(醍醐寺文書)には「尾張国熱田社座主領同國大脇鄕以下六ヶ所」を理性院雑掌に沙汰するとあって、大脇郷が前年に熱田神宮寺の座主となった醍醐寺理性院僧正宗助(72代醍醐寺座主)の所領となったことを示していることから、大脇郷は当初愛知郡に属し、熱田社もしくは熱田神宮寺の所領であったと考えられている。その後、1505年(永正2年)に大脇郷の集落内に曹洞宗寺院として清涼山曹源寺が開創、天文年間(1532年 - 1555年)には水野信元配下にあった梶川五左衛門秀盛が居城したといわれる大脇城が同じく集落近くに存在し、1551年1月7日(天文19年12月1日)の日付を持つ今川義元の判物では大脇郷が数年来丹羽隼人佐の知行地であることを示し、桶狭間の戦いを経て尾張国が織田信雄の支配下に置かれた1584年(天正12年)頃には矢野弥右衛門の知行地となっている。 ところで、太閤検地(尾張国では1592年(天正20年))によって村切りが行われるまで、まずもって村域とは明確なものではなかったことに注意が必要である。室町時代までの大脇郷は、境川水系正戸川に近い沖積平野(豊明インターチェンジの南付近)に人家が点在する小規模な集落であったようだが、その村域も江戸時代以降のように明確なものでは当然無く、集落から3キロメートルほど北西にいったあたりのやや遠隔地となる山間部、すなわち主戦地の東側に相当し後年大脇村に所属することになる一帯が室町時代当時の大脇村とどのような関わりを持っていたかを示す、いかなる史料や伝承も知られていない。 一方の桶廻間村は山中にあって、大脇郷と比べると距離としては合戦地のより近くに存在しており、伝承では今川方を酒で饗応したのもこの村の住民であったとされる。この主戦地のおおむね西側に相当する桶廻間村は、1340年代頃に当地に流入した南朝の落人によって開かれたとする伝承を持つ村で、1892年(明治25年)9月13日に知多郡共和村と合併するまで存続した、尾張国知多郡の自然村・行政村である。現在の名古屋市緑区有松町大字桶狭間、武路町、桶狭間北2丁目、桶狭間北3丁目、桶狭間、桶狭間上の山、桶狭間切戸、桶狭間清水山、桶狭間神明、桶狭間南、桶狭間森前、清水山1丁目、清水山2丁目、南陵、野末町などがこれに該当する。古くは「洞迫間(ほらはさま)」・「公卿迫間(くけはさま)」・「法華迫間(ほけはさま)」などの漢字が当てられていたといわれるが、一村立ての村名として登場するのは備前検地(1608年(慶長13年))の「桶廻間村」が史料上初出とされる。大脇村や近隣の村々と比べると桶廻間村は、近世以前の時代において、その存在や名が示されるほどの同時代の史料が皆無であり、岩滑城主であった中山氏が「柳辺・北尾・洞狭間」を領したとする寛政重修諸家譜(寛政年間(1789年 - 1801年))のような近世以降の史料によって知られるのみである。もとより山がちであって周辺地域より開発が遅れたことに理由が考えられるほか、村民らが落人の出自であることをひた隠しにし、人々の移動や他村との交流がほとんどなされずに山奥で閉鎖的・退嬰的な生活を続けてきたことにより、その実情が外部に知られにくかったことも理由であるとされる。 この2村のそれぞれ北部でまたがり、桶狭間の戦いの舞台地となった山間の一帯とは、室町時代の頃までは大脇郷とも洞迫間とも接点を持たない、漠然とした無主地・無名地であった可能性も大きい。検地が行われる以前において、荘園制の名残によって人と土地の支配は別であったこと、そして山林原野に名が与えられることはほとんど無かったからでもある。桶狭間の戦い直後に出された判物・感状の中で今川氏真は、このたびの「不慮之儀」が生じた舞台地について、「尾州一戦の砌(みぎり)」、「尾州に於て…」といった漠然とした範囲を指す表現を使用している。今川氏の内部で事態の把握が進んでいなかったかといえばそうでもなく、同時期に「去る五月十九日尾州大高口において」戦功を挙げた鵜殿十郎三郎を賞し、「大高・沓掛自落せしむといえども、鳴海一城堅固にあい踏」んだ岡部元信の戦功を賞していることから、今川氏真はじめ駿府にも地理的状況が詳細に伝わっていたことは明らかである。そして戦いそのものを「鳴海原一戦」と表現している。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}これらのことから、「おけはさま」という地名が、この当時存在していなかったか、あるいは存在していても戦いの舞台地として認識されていなかったことが考えられるのである。[独自研究?] 少し時代が下ると、「尾州ヲケハサマト云処」で戦役があったことを記す『足利季世記』(安土桃山時代)のような史料が登場してくる。ところで、この「ヲケハサマ」が近隣の集落である洞迫間を意識していったものであるかどうかは判然としない。『信長公記』の「おけはざま山」、『成功記』の「桶峡之山」も同様であるが、これらの「おけはさま」とは、洞迫間あるいは桶廻間村という一村の名とは性質の異なる呼称であるとする考えかたがある。中世時代の地名や村名は一般に、江戸時代のそれより広範囲を指す場合が多かったといわれ、すなわち「おけはさま」なる地名また、元来は大脇郷と洞迫間をまたぐ山間部一帯を漠然と指すものではなかったかとする説である。そして、それまで曖昧な広範囲を指していた地名が、検地を機会に村名などに冠されることも多くあったといい、主戦地の西側にあった小集落もこれにちなんで初めて正式に桶廻間村という村名が名付けられた可能性があることを、名古屋市桶狭間古戦場調査委員会は示唆している。「おけはさま」が洞迫間あるいは桶廻間村の名の由来となったとする理解である。 しかし、ある土地に名が発祥するのは山林原野より先に人の住まうところであるのが自然でもあり、「オケハサマ」もしくはそれに近い呼び名の近隣の集落が「おけはさま」の地名に元になった可能性も考えられる。洞迫間は、史料上にこそ登場しないものの、桶狭間の戦い当時にはすでに神明社があり(今川方の瀬名氏俊が戦勝祈願をしたといわれる)、法華寺もしくは和光山長福寺があったとされ(今川義元の首実検がなされたといわれる)、社寺をよりどころとした村落と呼べるほどの人家の集まりがあった可能性は高い。そして梶野渡は、長年伝承の域を出なかった「洞迫間」という名が、中山氏末裔とされる人物からの聞き取りにより実際に呼称されていたことを確認したとしている。洞迫間あるいは桶廻間村が「おけはさま」の名の由来となったとする理解である。 なお、漠然と広がる「おけはさま」のうち大脇村の北部に相当する東側の山間部は、はるか後年の江戸時代後半において「屋形はさま」という通称をもって知られることになる。「屋形はさま」の初出は『道中回文図絵』(1664年(寛文4年))とみられるが、『今川義元桶迫間合戦覚』(1706年(宝永3年)頃)には、元もと大脇村のうち「桶迫間」と呼ばれた地に、今川義元が布陣したことからそれ以降「屋形迫間(やかたはさま)」と呼ばれるようになったとある。現在も字名として残る豊明市栄町舘および南舘の「やかた」は、江戸時代の呼称である「屋形はさま」を継承するもので、その由来は、今川方がこの地に「陣屋形」を設けたからだとも(『桶狭間合戦記』(1807年(文化4年)))、駿府今川屋敷の主「お屋形様」がこの地に本陣を構えたからだともいわれるが、いずれにしても桶狭間の戦いにちなんで名付けられたものと考えられる。『張州府志』(1752年(宝暦2年))もまた、かつての「桶峡(おけはさま)」は今は「舘峡(やかたはさま)」と呼ばれているといい、『蓬州旧勝録』(1779年(安永8年))もやはり「屋形挾間(やかたはさま)」とは「桶挾間(おけはさま)」のことを指すと述べている。そして『尾張国地名考』(1836年(天保7年))は、大脇村の「屋形はさま」で行われたはずの合戦を桶狭間の名で呼ぶのは不審であるとまで述べ、大脇とはかつて広範囲の地域を占めた村名であって、桶廻間も「屋形はさま」も落合もかつては大脇村の字であったのが天正年間(1573年 - 1592年)にそれぞれ独立したことから、とりあえず桶廻間合戦と呼ぶことにしたのであろうとする山本格安の説を紹介している。 梶野渡は南舘が1951年(昭和26年)以降恣意的に桶狭間の名を使用するようになったとしているが、少なくとも江戸時代中期以降、「屋形はさま」と呼ばれる地がかつて「おけはさま」もしくはその一部であったという認識は一般的であったようである。名古屋市桶狭間古戦場調査委員会は、主戦地とされる一帯がそれぞれ桶廻間村と大脇村の村域に明確に分離された後も、主戦地一帯を「おけはさま」そのものとして呼ぶ慣習が残っていたとみるのが自然ではないかとしている。
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