北條泰時とは? わかりやすく解説

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ほうじょう‐やすとき〔ホウデウ‐〕【北条泰時】

読み方:ほうじょうやすとき

[1183〜1242鎌倉幕府第3代執権在職12241242義時長男通称江馬太郎承久の乱上洛して鎮定に当たり、六波羅探題として乱後の処理にあたった父の死後執権となり、評定衆設置御成敗式目制定など、御家人中心武家政治確立努めた

北条泰時の画像
本朝百将伝」より/国立国会図書館
北条泰時の画像

北条泰時

作者近松秋江

収載図書近松秋江全集 第8巻
出版社八木書店
刊行年月1994.4


北条泰時

読み方:ホウジョウヤストキ(houjouyasutoki)

作者 近松秋江

初出 昭和2年

ジャンル 小説


北条泰時

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/14 11:08 UTC 版)

北条 泰時(ほうじょう やすとき)は、鎌倉時代前期の武将鎌倉幕府第2代執権北条義時長男で、鎌倉幕府第3代執権(在職:貞応3年(1224年) - 仁治3年6月15日1242年7月14日))。御成敗式目を制定した人物である。


注釈

  1. ^ a b c 同時代に同名の阿波局(叔母。父義時の姉妹)がいるため名前を誤伝とする見方もある[1]。また坂井孝一は「推論に推論を重ねることを承知の上で、いささか想像をめぐらしてみたい」「単なる推論、憶測と退けられるかもしれないが」「不明な点、論証できない点は少なくないが」と断った上で、源頼朝の最初の妻であった八重と同一人物ではないかとの仮説を提示している[2]。しかし、この仮説について渡邊大門は、史料的な裏付けがない上に首肯できない点が多々あり、そもそも八重の実在そのものが疑わしく、八重が義時と結ばれたというのはかなりの無理筋だとしている[3]
  2. ^ a b 『今川記』では北条義時の娘(泰時の妹)。
  3. ^ 江戸時代後期の国学者大塚嘉樹は『東鑑別注』において、『吾妻鏡』編纂者による泰時顕彰のための曲筆としている。一方で歴史学者の細川重男は、泰時の父義時は「鎌倉殿家子」と呼ばれる門葉の次に位置づけられた側近集団に属し、かつその筆頭であったことを指摘して、頼朝は泰時が自らが選んだ側近(家子)の嫡男であったことを問題視したとしている[6]。また、細川は当時の北条氏嫡流の後継者は義時の異母弟政範であり、義時は庶流・江間氏の当主、泰時はその嫡男であったとしており、特に『吾妻鏡』において元久元年(1204年)の義時の任官以前における泰時の苗字は全て「江間(江馬)」であることに注意を促している[7]。それに対して呉座勇一は、当時の慣例から義時が江間を称したとしても、それが北条宗家から自立して嫡流を継承する資格を失ったことを意味しないとして、時政の長子宗時の死後は義時が後継者となったとしている。呉座は亀の前騒動後に時政が一時的に失脚して義時が北条氏の当主になったものの、その後時政が復帰したために義時が北条氏の後継者であることを前提に便宜的に分家・江間家を創設したが、復帰した時政が政範へと後継者の変更を図ったために後継者問題が生じたとしている[8]。また近藤成一は、時政・義時の「北条殿」「江間殿」という呼称は鎌倉後期の『吾妻鏡』編纂時にすでに覇権を確立していた北条氏の祖の呼称として工夫したものだろうとしている。頼朝の生前には無位無官だった時政・義時は官位を有する御家人よりは序列が下であり、通称の「北条四郎」「北条小四郎」の名が官位を有する御家人の「三河守」「左兵衛尉」などより上にあるのは不自然なため、『吾妻鏡』は「北条殿」「江間殿」の呼称を工夫したのではないかと推測している[9]。さらに泰時についても、母の出自が低かったため当初は義時の嫡子ではなく和田合戦などでの実績が認められたから嫡子となったとする説や[10]、義時は死ぬまで後継者をはっきりと決めなかったためそれが伊賀氏事件の原因となったとする説がある[11]
  4. ^ 『吾妻鏡』建久五年二月二日条。
    建久五年二月小二日甲午。快霽。入夜。江間殿嫡男童名金剛。年十三。元服。於幕府有其儀。西侍搆鋪設於三行。…(参列者中略)…時剋。北條殿相具童形參給。則將軍家出御。有御加冠之儀。武州千葉介等取脂燭候左右。名字号太郎頼時。次被獻御鎧以下。新冠又賜御引出物。御釼者里見冠者義成傳之云々。次三獻。垸飯。其後盃酒數巡。殆及歌舞云々。次召三浦介義澄於座右。以此冠者。可爲聟之旨被仰含。孫女之中撰好婦。可隨仰之由申之云々。
    (※終盤では頼朝が三浦義澄に孫娘の一人を泰時に嫁がせるよう命じているが、これはのちに三浦義村の娘・矢部禅尼が泰時の妻となる形で実現している。本文を参照のこと。)
  5. ^ 細川重男は時政は北条家の後継者としていた政範の没後に、分家した(江間)義時・泰時父子ではなく朝時を後継者と決めたものの、間もなく牧氏事件によって義時の手で失脚しており、時政方であった朝時は父義時や兄泰時と不仲になったとみている[16]。一方で山本みなみは、当時の武家社会は嫡宗家が未確立な段階であり嫡子の選定もきわめて流動的であるとしたうえで、細川は時政が朝時を後継者とした理由の1つとして朝時が時政の名越邸を継承している点を挙げているが、朝時の名越邸継承は時政の失脚後に義時・政子の差配によってである可能性が高く、また朝時が義時・泰時と不仲になったのも義時が朝時の母方の一族比企氏比企能員の変で滅ぼしたことによって、朝時が義時の後継者となる可能性が低くなったからだとしている[17]
  6. ^ 石井清文は泰時と時房の関係について、「最高のパートナーであるとともに、互いに最強のライバルでもあった」と評価している[24]
  7. ^ 時房の執権(連署)就任を政子の後ろ盾によるものと見る論者は、政子とその盟友である広元の死は、時房にとっては政治的基盤に関わる問題で、急遽鎌倉に帰還して泰時と対峙する必要があったとする[26]
  8. ^ 吾妻鏡』嘉禄元年(1225年)12月29日条。烏帽子親は泰時が務めたが、「前春宮権大進俊道朝臣」なる者の選定によって「頼経」と名付けられた[12]。これに対して、時房は12月23日に突然病気になって三寅の元服を欠席しており、泰時と時房の権力闘争があったとする論者は依然として泰時との間にわだかまりを残していた可能性もあるとしている[29]
  9. ^ 将軍宣下の報を持った幕府の使者佐々木信綱の鎌倉到着は2月13日。実朝暗殺以降6年余、幕府は征夷大将軍不在であった。
  10. ^ これは時房と協調しつつもその政治的影響力を警戒していた泰時が時房の政治的後継者の地位を目指す時盛を排して娘婿である朝直を後見することで時房流の分裂を促したと見る説もある[35]
  11. ^ 北条義時の娘とする説もある[44]
  12. ^ 北条義時の娘(泰時の妹)とする異本もある。
  13. ^ 泰時の弟・実義(後の実泰)は将軍・源実朝烏帽子親としてその一字(「実」の字)を与えられたが、次代の実時以降の金沢流北条氏の当主は得宗家の当主を烏帽子親としてその一字を与えられている。これは、北条氏の一族の中で将軍を烏帽子親として一字を与えられるのが得宗家と赤橋流北条氏当主に限定され、金沢流北条氏の当主は大仏流北条氏の当主とともにそれよりも一ランク低い得宗家を烏帽子親とする家と位置づけられ、実義から実泰への改名もその方針に沿ったものであったと考えられている[46]
  14. ^ 吾妻鏡天福元年(1233年12月29日条に、実時が泰時の邸宅において元服した旨の記事が見え、この時泰時が烏帽子親を務めて「時」の一字を与えたとされている[12][46]
  15. ^ 鎌倉期の足利嫡流家の歴代当主のは「得宗家当主の偏諱通字の「氏」」で構成されていた[48]
  16. ^ 「平賀氏系譜」(『平賀家文書』二四八号[58])の惟泰の付記に、貞永2年(1232年7月11日に武蔵前司入道殿(=泰時)の邸宅で元服した旨の記載があり、その名乗りから烏帽子親である泰時から「泰」の字を受けたと考えられている[59]

出典

  1. ^ 近藤成一『執権 北条義時』三笠書房 知的生きかた文庫、2021年、p.172-173
  2. ^ 坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏―義時はいかに朝廷を乗り越えたか』NHK出版〈NHK出版新書〉、2021年9月10日、142-147・149-153頁頁。ISBN 978-4-14-088661-8 
  3. ^ 渡邊大門の日本中世史ミステリー これはあり得ない!大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の疑問点を検証する SankeiBiz 2022年4月30日
  4. ^ 山本みなみ『史伝 北条義時』小学館、2021年、p.93
  5. ^ a b c 上横手 2000, p. 9.
  6. ^ 細川 2007, p. 24.
  7. ^ 細川 2007, pp. 18–19.
  8. ^ 呉座勇一『頼朝と義時 武家政権の誕生』講談社現代新書、2021年、p.204・233-234
  9. ^ 近藤成一『執権 北条義時』三笠書房 知的生きかた文庫、2021年、p.36-41
  10. ^ 山本みなみ『史伝 北条義時』小学館、2021年、p.257
  11. ^ 永井晋『北条政子、義時の謀略 鎌倉幕府争乱記を読む』ベストブック、2022年、p.215-216
  12. ^ a b c 角田朋彦「偏諱の話」『段かづら』三・四、再興中世前期勉強会、2004年、19頁。 
  13. ^ 山野 2012, p. 164 表1.
  14. ^ 御家人制研究会 編『吾妻鏡人名索引』吉川弘文館、1971年、320頁。 
  15. ^ 細川重男 (2009年1月8日). “新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時”. 2020年3月1日閲覧。
  16. ^ 細川 2007, pp. 19・33.
  17. ^ 山本みなみ『史伝 北条義時』小学館、2021年、p.157-161
  18. ^ 長又 2017, p. 170.
  19. ^ 長又 2017, p. 216.
  20. ^ 永井晋『鎌倉幕府の転換点 「吾妻鏡」を読みなおす』日本放送出版協会、2000年。 
  21. ^ 上横手雅敬『日本中世政治史研究』塙書房、1970年、382-397頁。 
  22. ^ 川合康『日本中世の歴史3 源平の内乱と公武政権』吉川弘文館、2009年、266-267頁。 
  23. ^ 石井 2020, p. 60-72.
  24. ^ 石井 2020, p. 179.
  25. ^ 上横手 2000, p. 66.
  26. ^ 石井 2020, p. 70-76.
  27. ^ 石井 2020, p. 73-90.
  28. ^ 長又 2017, pp. 183–184.
  29. ^ 石井 2020, p. 88-90.
  30. ^ 長又 2017, pp. 174–178.
  31. ^ 長又 2017, p. 176.
  32. ^ 石井 2020, p. 143-151.
  33. ^ 石井 2020, p. 269.
  34. ^ 石井 2020, p. 163-204.
  35. ^ 石井 2020, p. 205-211・228-235.
  36. ^ 石井 2020, p. 247-248.
  37. ^ a b c 高橋 2013, p. 26.
  38. ^ 石井 2020, p. 262-263・272.
  39. ^ 石井 2020, p. 261-264.
  40. ^ 加藤晃「日本の姓氏」井上光貞ほか編『東アジアにおける社会と習俗』学生社〈東アジア世界における日本古代史講座第10巻〉、1984年12月、110-111頁、ISBN;9784311505102、NCID;BN00320743
  41. ^ 石井 2020, p. 178-179・215.
  42. ^ 上横手 2000.
  43. ^ 五味文彦『源実朝 歌と身体からの歴史学』〈角川選書〉2015年。 
  44. ^ 北条氏研究会「北条氏系図考証」(安田元久編『吾妻鏡人名総覧』吉川弘文館、1998年)。
  45. ^ 吾妻鏡嘉禎2年(1236年)12月23日条
  46. ^ a b 山野 2012.
  47. ^ 田中 2013, p. 67, 臼井信義「尊氏の父祖 -頼氏・家時年代考-」.
  48. ^ 田中 2013, p. 25, 田中大喜「中世前期下野足利氏論」.
  49. ^ a b c d e f g h 紺戸淳「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」『中央史学』2号、1979年。 15頁の系図ほか。
  50. ^ a b c d e f g h i 小川 1980, p. 624.
  51. ^ a b 貫達人「円覚寺領について」『東洋大学紀要』第11集、1957年、21頁。 
  52. ^ 江田郁夫 編『下野宇都宮氏』戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第四巻〉、2011年、9頁。 
  53. ^ 河越氏 ~武蔵国秩父党の惣領家~より。
  54. ^ 今野慶信 著「藤原南家武智麿四男乙麻呂流鎌倉御家人の系図」、峰岸純夫; 入間田宣夫; 白根靖大 編『中世武家系図の史料論』 上、高志書院、2007年、112頁。 
  55. ^ 「甲斐信濃源氏綱要」(『系図綜覧 第一』)の信時項に「後堀川院寛喜元年正月十五十)、加冠平泰時、因先例請名、故號名信時」とある。
  56. ^ 肥前千葉氏調査委員会「「服部英雄 中世小城の景観・海から考える」」『中世肥前千葉氏の足跡 : 小京都小城の源流』佐賀県小城市教育委員会、2011年。hdl:2324/20437CRID 1130282270956311040https://hdl.handle.net/2324/20437 
  57. ^ 渡部正俊 著「第3編 中世 III 室町期の二本松」、二本松市 編『二本松市史 第1巻 原始・古代・中世・近世 通史編1』1999年、288-289頁。 
  58. ^ 東京帝国大学文学部史料編纂所 編『大日本古文書 家わけ第十四』1937年、727頁。 
  59. ^ 山野 2012, p. 181 脚注(5)・(6)・(8).
  60. ^ 野口実「執権政権下の三浦氏」『中世東国武士団の研究』高科書店、1994年。 321頁・344頁 脚注(26)・(29)
  61. ^ 鈴木かほる『相模三浦一族とその周辺史: その発祥から江戸期まで』新人物往来社、2007年、40・238頁。 
  62. ^ 三浦一族の歴史 | 横須賀市横須賀市の公式ホームページ内、最終更新日:2010年11月1日)、北条氏の宿敵─三浦一族 より。
  63. ^ 角田朋彦「偏諱の話」『段かづら』三・四、再興中世前期勉強会、2004年、20頁。 


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