加工技術の発展と交易ネットワーク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 01:58 UTC 版)
「糸魚川のヒスイ」の記事における「加工技術の発展と交易ネットワーク」の解説
大角地遺跡での利用は宝石としてではなく、高比重で強靭なヒスイの性質に着目して敲石として使ったものであった。装飾品としての利用は、約6000年前(縄文時代前期後葉)に現れている。当初は大珠(長さ4センチメートル以上のもの)とそれより小さい垂飾が作られ、勾玉の出現はそれよりも後であった。 2009年(平成17年)に富山県富山市呉羽町北・同市呉羽昭和町に所在する小竹貝塚(おだけかいづか)で、ヒスイ製の垂飾(未製品)が発見された。この垂飾は鮮やかな緑色を呈した良質のヒスイで作られたもので、穿孔の痕跡は見当たらないが表面の一部は研磨されている。形状については、太さと長さの比率が1対6という細長い形である。海岸や河川で見られるヒスイ原石には、このように細長いものは見られない。そのため、ヒスイ原石を人為的に割って得た形状と考えられている。類似した形状の垂飾(未製品)は、新潟県柏崎市の大宮遺跡でも1994年(平成6年)に発見されている。大宮遺跡での発見例は、小竹貝塚と同時代の世界最古の装飾品としてのヒスイ利用例である。 ヒスイは強靭な構造のために穿孔や研磨などの加工が困難であり、多大な時間と手間を要したことが推定される。ヒスイ製の大珠や勾玉には、加工方法がいまだ不明なものがかなり存在する。ヒスイ製の玉の生産は縄文時代早期から前期末にその源があり、最盛期を迎えたのは縄文時代中期になってからである。糸魚川地方および富山湾沿いの地域では、まず縄文時代早期末(約6500年前)には、滑石を材料とした耳飾の生産が始まった。 中期の生産で主流となったのは、長さ5-10センチメートル前後の大珠であった。ヒスイ原石の加工場(玉造遺跡)として、前出の大角地遺跡の他に長者ヶ原遺跡、寺地遺跡、細池遺跡(いずれも新潟県糸魚川市)、境A遺跡(富山県下新川郡朝日町)などが知られる。ヒスイ産地である糸魚川周辺では、弥生時代中期に一時的に中絶するが、縄文時代中期から古墳時代に至るまでヒスイ玉製作が続けられていたことが確認されている。 これらのうち、長者ヶ原遺跡は発掘調査と研究を通して、縄文時代以降のヒスイ製品がすべて日本産であることを立証した点でとりわけ重要な位置を占めている。これまでの調査で、出土品からヒスイなどの玉類や蛇紋岩の石斧の生産と交易の拠点的存在であることが判明した。蛇紋岩製の石斧は艶やかな外見に加えて切れ味も鋭く、高級品として流通していたものと推定される。加えて石斧の作成技術は、やがてヒスイの装飾品作りにも生かされることになっていった。 玉類とその生産にかかわる出土品では、滑石製耳飾類や垂玉類、ヒスイ製の大珠の制作過程を示す原石や大珠の未成品、工具類が見つかった。ヒスイと蛇紋岩はともに姫川の流域で産出される特産のもので、河口や海岸で採取した原石が姫川から約3キロメートル離れたこの遺跡まで運搬されてきた。原石はヒスイ製のハンマーで形を整え、砂岩製の砥石で研磨されてさまざまな製品に姿を変えて日本各地に運ばれていった。やがて製品だけではなく、ヒスイの原石も運ばれていき、各地で加工されるようになった。 ここで縄文時代のヒスイ出土例として、天神遺跡(山梨県北杜市大泉町西井出)と三内丸山遺跡(青森県青森市大字三内字丸山)を取り上げる。天神遺跡は縄文時代前期から中期の遺跡で、八ヶ岳南麓の標高800-850メートルのところに位置する。1982年の発掘調査で、ヒスイ製の大珠が発見された。この大珠は完成品としては日本最古のものとされる。全体の形は海岸に産するヒスイ転石の形状をほぼとどめて表面は研磨され、直径が表8ミリメートル、裏4ミリメートルの穴が貫通している。 三内丸山遺跡のヒスイ製大珠は、つぶれた球形の形状が特徴的なものが出土し、最大の出土例のものでは直径6.5センチメートル、高さ5.5センチメートルに及んでいる。三内丸山遺跡ではヒスイ製の大珠未成品やヒスイ破片の出土がみられ、糸魚川から約600キロメートル離れたこの地でもヒスイ製品の加工が行われていたことが明らかになった。 これらのように広範な出土の分布から見て、ヒスイを扱う交易ネットワークの存在が示唆される。研究の初期段階においては、ヒスイ製大珠が原産地の糸魚川を中心とした同心円状に広く分布し、出土の量についても原産地から離れるほど少なくなっていくとの仮説があった。しかし1980年代以降に関東地方や中部地方などでのヒスイ製大珠に関する資料の蓄積が進展するにつれて、この仮説には次第に否定的な見解が増えていった。木島勉(糸魚川市教育委員会)はヒスイの玉の出土分布を詳細に調べ、同心円状ではなくピンポイント状に広がっていることを指摘した。原産地の糸魚川に比較的近い山形県、秋田県、福島県での出土が比較的少なく、逆に距離の離れた長野県の伊那谷や八ヶ岳山麓、茨城県の那珂川流域、さらには青森県や北海道でも出土例が多く知られている。 栗島義明(明治大学日本先史文化研究所研究員、研究知財戦略機構 特任教授)が指摘する新たな説は、原産地を起点として、同心円状ではなく帯状に連なった「ジェイド・ロード」と形容される分布経路の存在である。栗島は糸魚川周辺を起点として松本平、諏訪を通り、八ヶ岳の南麓を経由して山梨から関東西部に帯状に伸びるルートと、糸魚川から日本海の海岸に沿って上越平野から長岡付近に続き、その後分岐して群馬県に通じるルートと会津盆地経由で福島県の中通りや栃木県の那須方面に至るルートの存在を推定した。ヒスイは威信材として貴重であるがために、原産地から遠く離れるほど価値や評価が増大していった。それを裏付けるように10センチメートルを超える大型の大珠や色合いや透明度に勝る優品のヒスイは、原産地から遠隔地まで運ばれていたことがわかる。遠隔地での大型ヒスイ大珠の出土例として、岩手県和井内(15.2センチメートル)や山形県今宿(14.3センチメートル)、栃木県岡平(14.1センチメートル)が知られる。いずれも糸魚川からは200キロメートル以上も離れた遺跡での出土例で、和井内は500キロメートル以上直線距離でも離れている。縄文時代、各地で産出する石材を用いた玉製品が作られたが、ヒスイは他の石とは異なり北海道、本州の広範囲にもたらされた。しかも透明度が高い高級品の方が、糸魚川周辺から遠く離れた場所まで運ばれていた傾向が指摘されている。 ヒスイ製品は一般的に「交易品」と考えられている。しかし原産地である糸魚川地方から富山県東部に存在する玉作遺跡からは、交易の見返りとしての他地域からの遺物の出土はみられない。遺物として出土しない食料品が見返りだったと仮定しても、縄文時代の糸魚川地方は気候と環境が安定していて物質的・経済的に豊かだったため、わざわざ食料品と交換したとは考えにくい。木島勉はヒスイ製品について「贈与品」の役割を考え、立川陽仁なども行事における贈答品や部族社会における歓待の役目を果たしたものと推定している。この場合、贈答品としてヒスイ製品を受け取った側がさらに他の地方に贈ることによって、遠方まで分布範囲が広まった可能性が指摘される。 各地で見つかったヒスイ製品のうち、大珠は墓壙からの出土例が多い。大珠は日常の装身具として使用するには大きくて重いため、呪術的な役割が大きかったものと推定される。加えてヒスイ製品は集団統率の象徴としての威信財的な一面を持ち、その美しさと貴重さにおいて重要視された。 縄文時代前期後葉に始まった日本国内でのヒスイ利用は、後期前葉までは利用の中心が中部地方から東北地方、そして北海道南部や伊豆諸島の八丈島にまで分布していた。この時期、西日本ではごくわずかな利用例がみられるのみであった。縄文時代後期中葉から晩期には、九州や沖縄にも利用例が広がっているが、近畿地方や中国・四国地方では利用例が非常に少なかった。この時期になると、ヒスイの原石と加工技術も遠方の地方にまで伝わり、原産地である糸魚川地方や富山湾周辺以外でもヒスイの玉類を制作するようになった。縄文時代晩期には、ヒスイを含めた玉作遺跡は石川県を西端とし、秋田県を東端として広がっていた。 縄文時代晩期の後期になると、北海道千歳市美々4遺跡、柏木B遺跡、青森県八戸市風張遺跡から100点を超えるヒスイが出土するなど、北海道と現在の青森県に大量のヒスイが持ち込まれたことが確認されている。しかし晩期後半の最終期には北海道、青森のヒスイ出土は激減し、その後も同地域へのヒスイ流通はほぼ停止状態となる。これは北海道や青森県域で発展した縄文後晩期の亀ヶ岡文化が衰退し、遠隔地との交易力が低下したためと推察されている。 また縄文時代晩期後半、中国地方、四国地方ではほぼ出土例が無いが、近畿地方、そして九州からある程度まとまった出土が見られる。九州の縄文時代の遺跡からは大量のヒスイの出土は見られないものの、縄文時代後期から一定量の流通があった考えられている。この九州へのヒスイの流通は次の弥生時代へと引き継がれていく。
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