創立まで
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当初「皆楽社」として計画が進んでいた組織は、発起人に加わっていた前田斉泰と世話人の重野安繹の発案により「能楽社」として設立されることとなった(これが現在の「能楽」という言葉の起こりである)。社員としては華族48人が加わり、まずは演能の場となる舞台を建設することとなった。またこの舞台建設に当たっては、英照皇太后の鑑賞に供するという目的も掲げられた。 候補地としては上野公園なども挙がったが、ちょうど芝公園内に会員制の高級料亭「紅葉館」の建設計画が進んでおり、これと併設する形で創建されることとなった。 1880年(明治13年)10月、宮内庁内匠課技師の白川勝文の監督により着工。建設にかかった費用は当時の金額で1万8000円余りだった。岩倉は多忙の中毎日のように工事現場を訪れ、嵐窓の付け方、切戸の取っ手の彫り方といった細部に至るまで注文を付けたという。
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創立まで
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1871年に文部省が創設され、学校制度全般に渡る法律の起草が開始された。文部省は、国民教育を公私により差別しないとの立場から、1872年3月に私塾や寺子屋も国の認可が必要であるとの布告を各府県に通達した。 この布告から1ヶ月の4月、奈良町では私塾の教師と有識者が私塾・寺子屋の廃止・統合と私学校の設立について話し合った。結果、奈良町の北部と南部にそれぞれ一つずつ、二つの私学校を設けることになった。奈良町の北部、北袋町には文武館の儒学教師であった佐々木育輔宅(元奉行所学問所)を学舎とする「明教館」が開設された。児童の増加に合わせて、明教館は北魚屋東町の元与力の斉藤宅、さらに、笹鉾町の浄国院に移転する。 1872年に太政官布告により学制が発布され、さらに学制の細則である小学校校則が制定された。このとき規定された小学校は義務教育として6歳から13歳の児童を教育する機関と位置づけられ、さらに初等教育を普及させるため日本全国で学区組織を設定することを定めた。学区組織において奈良町は第1大区となり、さらに第1大区を5小区に分けることとなった。現在の鼓阪小学校周辺は奈良県第1大区第1小区に割り当てられた。
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創立まで
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1945年9月12日 龍井医科大学(中国医科大学龍井分校)設立。 1946年4月1日 吉東軍政大学が開学。1年制で政治科と軍事科を設置。周保中が校長をつとめる。 1946年6月 朝陽川教導隊、樺甸から来た東北軍政大学、延吉の吉東軍政大学が合併し、東北軍政大学吉林分校が成立。校長は周保中。 1948年10月1日 延辺医科専門学校創立(延辺大学医学院の前身)。校長は盧基舜。朝鮮族の学生だけを募集し、授業も朝鮮語で行う。 1948年12月、吉林省民族作業座談会で朝鮮族幹部養成を目的とした民族大学を延吉に建てる議案が通過し、東北朝鮮人民大学準備委員会が正式に発足する。少数民族が独自の大学を持つことを許可すべきかどうか政府内で議論があったが最終的に周恩来が決定したという。 1949年2月、東北朝鮮人民大学建校法案が東北局と東北行政委員会の批准を受ける。3月、「東北朝鮮人民大学」の名称で学生を募集。3月15日~18日、延辺大学に名称を変更し入学試験を行う。文系は政治・朝鮮語・数学・歴史・地理、理系は政治・朝鮮語・数学・物理・化学、農学系は政治・朝鮮語・数学・化学・生物の筆記試験があり、その後、面接試験と体格検査を経て565人中390人が合格した。390人の内わけは文学部政治経済学科41人、歴史地理学科38人、語文学科44人、数学物理学科30人、化学学科24人、工学部土木建築学科25人、電機学科30人、農学部の農林学科18人、畜牧獣医学科17人で、延辺医科専門学校の本科生63人、専修科生51人が医学部本科と専修科に編入した。3月8日、延辺医科専門学校は延辺大学医学部になる。 1949年3月20日、延吉のスターリン劇場にて延辺大学開校式が開催される。同日、中共延辺地区委員会は延辺大学校長に朱徳海を、副校長に林民鎬を任命。全教員数は60人。開学当時15名の日本人教師がおり、授業は朝鮮語と日本語で行われた。 4月12日、延辺大学中共支部が成立し、林民鎬が書記に就任。 1949年4月1日、延辺大学が龍井医科専門学校を接収し管理し、延辺大学医学部が成立。 1949年7月~8月、林民鎬副校長を団長とする延辺大学の考察団が北朝鮮を訪問し、金日成総合大学、平壌師範大学、平壌医科大学、平壌工業大学、元山農業大学を視察。 1949年9月 延辺大学の教師らが敦化県六頂山(牛頂山)で2個の石獅子とともに高さ95.5センチの「貞恵公主墓碑」を発掘する。
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創立まで
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「大日本帝国海軍の歴史」の記事における「創立まで」の解説
日本の近代的海軍は幕末に始まった。1853年、ペリーが来航し開国を求めると、江戸幕府は海防の強化に乗り出した。その一環として、オランダに蒸気軍艦を発注すると共に、1855年には長崎海軍伝習所を設立し、海軍士官養成を開始した。海軍伝習所は幕府伝習生以外に諸藩の伝習生の受け入れも行ったため、幕府海軍だけでなく有力諸藩も海軍を整備した。幕府は64隻、諸藩合計で127隻の洋式艦船を取得していたとの最近の研究がある。幕府が設立した長崎製鉄所は三菱重工業長崎造船所へ、横須賀造船所は横須賀海軍工廠へと発展し、その後の海軍の発展に大きく寄与していく。 幕府・各藩ともに所有したのは輸送船が中心で陸兵の輸送を主任務としていたが、幕府海軍は富士山丸や開陽丸といった本格的な軍艦も所有していた。戊辰戦争では、阿波沖海戦、寺泊沖海戦、宮古湾海戦、箱館湾海戦が発生している。 なお、幕末の日本の軍事力の強化を見た清の李鴻章は、1864年の段階で「清が『自強』に成功しなければ、日本は西洋にならって中国侵略に参加することになるだろう」と、日本が将来清の脅威となる可能性に言及していたが、これは1895年の日清戦争で現実のものとなった。
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