創立の経緯
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「サンパウロ日伯援護協会」の記事における「創立の経緯」の解説
戦後、日本からブラジルへの移民が再開され、ピーク時には月間500名以上もの日本人がサントス港に上陸するようになった。この時代の通関手続きは10時間以上もかかり、翌日まで持ち越される場合もあり、その間は昼は炎天下で行列し、雨の日や夜は倉庫の軒先で雨露をしのぐ状態で、老人や子供にとっては大変な負担であった。ブラジルへ移民して来た日本人の苦労を少しでも和らげようと、財団法人日本海外協会連合会(通称:海協連)サンパウロ事務所の大沢大作支部長が移住者用の休憩所を設けることを提案。この案はブラジル日本移民50周年記念事業の一つとして取り上げられ、そのままサントスに移民の家の開所とそれを運営する組織「日本移民援護協会」が発足するきっかけとなった。「移民の家」の家屋は日本政府の助成金で購入し、その運営は現地ブラジルの日系人へ委ねられることとなった。 1958年8月、在サンパウロ日本国総領事公邸に日系社会の有志が集い、「移民の家」運営組織設立についての具体策を検討。その後、8回ほど会議を重ね、設立計画を煮詰めた。翌年1月21日、サンパウロ市ブエノ・デ・アンドラーデ街の双葉食堂において「南伯移民援護協会」(仮称)の設立発起人打ち合わせ会が行われ、定款草案、役員構成案そして設立趣意書原案が検討され、ある程度定まった定款と趣意書の細かい調整を海協連が行った。「移民の家」設立資金の不足分を補うために、日本政府の補助金獲得とブラジル日系社会からの募金活動を行なうことも決定された。 1959年1月28日、サンパウロ市リベルダーデのリベルダーデ広場にあったサンパウロ日本文化協会サロンにおいて「日本移民援護協会」は創立された。創立総会には32名の設立発起人が出席し、南米銀行(日本の海外移住組合連合会の現地代行機関であるブラジル拓殖組合により1940年に設立)副頭取の福島県人安瀬盛次(あんぜもりじ)が議長を務めた。この時、仮称だった「南伯移民援護協会」を正式に「日本移民援護協会」に決定し、初代会長には安瀬盛次が選ばれた。当初、援協の事務所はサンパウロ市ドン・ジョゼ・ガスパル広場30番にあった海協連事務所内に置かれた机一つのみのスタートで、運営予算は外務省の1959年度予算より470万円が振り分けられ、さらに会員200人獲得運動を実施し、運営資金として一般会員から1,000クルゼイロ、法人会員から2,000クルゼイロの年会費を徴収することになった。 しかし、外務省より「交付された補助金は海協連サンパウロ支部へのものであり、他の名目の団体が使用することを認めない。海協連が移民の家の家屋を購入し、登記せよ。その後、移民の家を日本移民援護協会に貸与しても良い」との通達があり、問題とされた。一部の援協役員からは「援協は早急に解散すべし」との声も上がったが、大沢支部長は「政府補助金の不足分は日系社会から協力を得なければならず、海協連サンパウロ事務所はブラジルでは法的に認められていない団体であり、移民の家運営は援協が中心となってやってほしい。今、援協に手を引かれてはどうにもならない」と説得し、最終的には「移民の家」の家屋は大沢大作名義で登録され、援協がそれを受託運営する形で落ち着いた。
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創立の経緯
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「学校法人愛知淑徳学園」の記事における「創立の経緯」の解説
創設者は初代校長・小林清作であるが、創設に関してはその義母の吉森梅子の力が大きかった。吉森梅子は、万延元年(1860年) 京都の米穀商家に生まれ西陣織の刷毛問屋の吉森家に嫁いだ。梅子の一人娘である八重は、京都日出新聞の主筆をつとめていた小林清作に嫁いだ。 仏教布教に熱心であった梅子は、日露戦争が終結する頃、吉森商店の支店が名古屋白塀町(現西区花ノ木)にあった関係で知恩院の執事とともに来名し、白壁3丁目に住んで仏教布教に専心。その活動を通して、長者町の資産家三輪常七と縁ができた。 梅子は三輪家の娘が学校不足で進学できないことを知り、娘婿の小林清作を京都から呼び寄せ、三輪の資金援助を得て、短期間のうちに学校創設を実現。1905(明治38年)4月15日、西新町(現、東区東桜1丁目)に、校主に三輪常七、校長に小林清作、幹事兼舎監に吉森梅子の陣容で愛知淑徳女学校を開校した。。
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創立の経緯
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「創価大学ゴールデンベルリンガーズ」の記事における「創立の経緯」の解説
1987年7月19日、当時、創価大学教授であったピアニスト・川村深雪が自身のゼミ生を中心にハンドベル演奏者を集め、結成される。結成当初は学内の「ハンドベル愛好会」という名称で活動を行う。1988年12月23日、「創価大学ゴールデンベルリンガーズ」と改名。「ゴールデンベル」(Golden Bell)とは「レンギョウの花」の英語名であり、花言葉は「希望」を意味する。ここには「希望の鐘を打ち鳴らしていくリンガーズ」という部員たちと創立者の願いが込められていた。
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