周王朝創立まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/29 03:54 UTC 版)
父の西伯昌(文王)が死んだあと、呂尚(太公望)や周公旦を左右に父の事業の継承に励んだ。 殷の紂王は暴虐な振る舞いが多く、これを討つために兵を挙げて盟津まで兵を進めた。武王は文王の位牌を掲げ、自らを太子発と呼び、この遠征が父の意思によるものであると宣言した。この時、周軍に瑞兆がいくつも現れ、諸侯が武王の元に馳せ参じ、その数は800に達した。これを見た諸侯達は「今こそ殷を倒す時です」と意気込んだが、武王は時期尚早と見て兵を引き上げた。 2年後、紂王の暴虐はますます酷くなったので再び兵を挙げた。この時の周の兵力は戦車300乗、士官3000人、武装兵45000人であった。一方、殷軍は70万を超える大軍を繰り出し、両軍は牧野で激突した(牧野の戦い)。殷軍は大軍であったがその大半は奴隷兵であり、奴隷の中には殷により他の部族からさらわれてきたり、戦争の時に捕虜になったりした者が大勢いたため逆に武王の到来を歓迎する者まであり、周軍が攻めてくるとそれらの兵士は後ろを向いて殷軍に攻めかかった。 大敗した紂王は首都に逃げ帰り、そこで焼身自殺を遂げた。それを追ってきた武王は紂王の遺体に3本の矢を打ち込み、焼け爛れた首を黄金の鉞で落とし旗の先に掲げた。
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