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林民鎬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/22 03:06 UTC 版)

林民鎬
2004年9月、新たに延辺大学に建てられた林民鎬像
各種表記
チョソングル 림민호
発音: リム・ミンホ
ローマ字 Lim Min-ho
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建て替えられる前の胸像

林 民鎬(りん みんこう、림민호、1904年1月3日 - 1970年7月14日)は中国朝鮮族出身の政治家、教育家。敦化県副県長、吉林日報副編集長、延辺日報総編集長、延辺大学創立委員会副主任などを歴任。第3回吉林省人民代表大会代表、吉林省第2、第3回政協委員、延辺州政協第1、第2、第3回委員に選出される。

延辺大学の設立者の一人で、初代副校長として民族教育の発展に努めたが、文化大革命で長期間にわたる迫害を受け、1970年7月14日、67歳で死去。

略歴

1904年1月3日、朝鮮の咸鏡北道会寧郡に生まれる。

1932年、モスクワ東洋学院を卒業。国際赤色労働組合を組織する任務を与えられ、朝鮮に帰国[1]。在学中に結婚、生まれた長男を、モスクワ国際孤児院に預ける。

咸興赤色労働組合事件で逮捕され、1940年まで獄中生活を送り、釈放されてからは中国に行き敦化の森林で労働者として働いていた[1]

1945年10月、中国共産党に入党し、1946年3月に敦化県副県長に任命[1]

1949年3月20日、中共延辺地区委員会により延辺大学校長の副校長に任命される。校長は朱徳海

1949年4月12日、延辺大学中共支部書記に就任。

1949年、長い間途絶えていたソ連にいる長男との連絡を回復。

1949年7月~8月、延辺大学考察団の団長として北朝鮮を訪問。金日成総合大学平壌師範大学平壌医科大学、平壌工業大学、元山農業大学をまわる。

1950年10月、毛沢東主席、朱徳副主席に北京で接見。

1951年10月14日、朝鮮族を代表して声明を発表、「抗美援朝(朝鮮戦争)」へ参加を呼びかけた中央政府の決定を支持。

1961年1月6日、延辺大学に成立した「三反整風領導小組」の組長に就任。

1967年8月~、延辺賓館及び党学校で開かれた「林民鎬事件専門審査組」で拷問を受ける。中ソ関係が悪化するなか、ソ連に住んでいた長男との手紙のやり取りや往来が問題となり、「ソ連のスパイ」との濡れ衣を着せられる。

文革は反右派闘争に輪をかけたようなもので内乱状態だった。国家主席の劉少奇がなぐり殺された。ここでも数万人が死んだ。延辺大学の校長の林校長ね、学生たちに耳をひっぱられてね、耳がこんなに伸びちゃった。朱徳海は形式的な名誉校長みたいなもので、林校長が実質的な初代校長になった

『中国朝鮮族文学の歴史と展開』大村益夫 第3章(聞き書き)金学鉄―私の歩んだ道)

1970年7月14日、67歳で死去。

いわゆる「革命造反派」で組織した悪名高い「林民鎬事件専門審査組」は、東西南北で見ることも稀な残虐非道な拷問を加え、林校長に「変節した」という、ありもしない事実を承認するように迫った。当時、「審査組」のメンバーは、大多数が学校の教師たちだった。恐ろしい拷問により、林校長の片耳はもげてしまい、全身は傷だらけで、林校長だとわからないほどだった。1969年1月、延辺大学にいわゆる「大衆独裁指揮部」が創立され、「階級隊伍を整理」する運動が始まると、「林民鎬事件専門審査組」では、2年間の審問により痛めつけられるだけ痛めつけられた林校長を、再び「黒い輩の窟」と呼ぶ真っ暗な部屋に閉じ込め拷問を継続した。それほど経たずに林校長は、ほとんど失神状態におちいってしまった。誰が何を聞いても、林校長は朝から晩まで同じ言葉を繰り返すのだった。

ほどなく学校が敦化の紅色農場に移転する時、「大衆独裁指揮部」では、失神状態の林校長を自宅に送り返そうとした。しかし、林校長には家がなかった。夫人のキム・チャネ(김찬해)も「反逆者」として追われ、別の場所に閉じ込められ審査を受けており、子供たちも散り散りで家にいなかった。学校の「大衆独裁指揮部」は、仕方なく意識のない林校長を、当時延吉市公園街で暮らしていた林校長の2番目の弟の家に運んだ。その時、私は、偶然に道端で手押し車で運ばれる林校長を見かけた。白髪に痩せこけて骨だけが残った林校長の姿は、悲惨この上なかった。

「このごろ、お身体はいかがですか。私のことがわかりますか」とあいさつをしたが、林校長は、私のことがわからなかった。もげてしまった耳跡は赤くあざになり、長い間むちでうたれ、顔は傷だらけだった。私は人知れず涙を流した。その後、ほどなく、林校長は公園街の、潰れそうなあばら家でこの世を去った。

聞いたところによると、林校長の親戚らが、林校長が亡くなったことを、当時、学校労働者宣伝隊指揮部に伝えたものの、誰も関与しようとはしなかった。そこで、親戚何人かが、遺体を牛車に載せ、寂しく共同墓地に埋葬したという。もちろん、葬式も追悼式もなかった。 — 郑判龙、背井离乡五十年

1978年7月14日、延辺大学4階会議室で追悼式及び納骨式が行われ名誉回復。遺骨の一部は延辺大学の庭園に撒かれ、残りは和龍県の家族墓地に安置。

記念事業

1989年7月14日、命日に合わせて胸像の除幕式が延辺大学で開かれる。

2004年9月6日、生誕100周年を祝い新たな銅像が延辺大学に建てられる。

2004年9月6日、延辺大学で生誕100周年紀念座談会及び林民鎬奨学金授与式が開かれる。

2012年、林民鎬の伝記「이 세상 사람들 모두 형제여라 (四海之内皆兄弟 朝鮮族教育家林民鎬)」(金虎雄著・民族出版社・2009年・朝鮮語)が、少数民族の文学作品を対象とした第10回「駿馬賞」(2008年~2011年)の受賞作(ルポルタージュ部門)に選ばれる。[2]

2015年5月12日、「2016年度・林民鎬奨学金」の授与式が延辺大学で開かれる。[3]

2018年12月5日、延辺大学で2018年度林民鎬奨学金授与式が開かれる。[4]

脚注

  1. ^ a b c 李 2009, p. 160.
  2. ^ 第十届骏马奖获奖作者作品:金虎雄《四海之内皆兄弟》”. 新浪读书. 2019年2月3日閲覧。
  3. ^ 我が校で「2016年度・林民鎬奨学金」の授与式を開催.2015-05-16.延辺大学
  4. ^ 我校举行2018年林民镐奖学金发放仪式”. 延边大学. 2019年2月3日閲覧。

参考文献

  • 延辺人物大辞典編集委員会(編)『延辺人物大辞典 1952-1997』(延辺人民出版社、1997年)
  • 大村益夫(著)『中国朝鮮族文学の歴史と展開』(緑蔭書房、2003年4月)
  • 郑判龙『背井离乡五十年』(民族出版社、1997年)
  • 李海燕『戦後の「満州」と朝鮮人社会 越境・周縁・アイデンティティ』御茶の水書房、2009年。ISBN 978-4-27-500842-8 



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