作品誕生の経緯
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「レ・ミゼラブル (ミュージカル)」の記事における「作品誕生の経緯」の解説
1980年、アラン・ブーブリル(作詞)、クロード=ミシェル・シェーンベルク(作曲)らによって当作品の前身となるミュージカル“Les Misérables”が制作され、パリで上演された。 1981年、この作品のレコーディング・アルバムを聴いた世界的演劇プロデューサー、キャメロン・マッキントッシュが目をつけ、RSCの芸術監督でもある演出家トレヴァー・ナンにイギリスでの上演の話を持ちかける。これに対してナンはジョン・ケアードとの共同演出、さらにはRSCとの共同製作をマッキントッシュに提案。1982年、商業演劇のプロデューサーと王立劇団が提携する形でロンドン版の制作が開始された。 時同じくして、リノ・ヴァンチュラ主演、ロベール・オッセン監督により長編大作映画として映画化され、テーマ曲としてオリジナル・キャスト盤が楽曲使用され、別途発売されたサントラ盤にも挿入され映画の成功により知られることになる(日本では劇場未公開だが、TV放映およびDVD発売されている)。 1980年パリ公演の舞台は、『レ・ミゼラブル』をよく知るフランス人に向けて創られたミュージカルであった。そのため、ストーリーのうちでも重要な箇所、例えば主人公ジャン・バルジャンがモントルイユ・シュル・メールの市長になる以前の銀の燭台のくだり、などが省略されることがあった。しかし「ほとんどのイギリス人にとっては題名 (Les Misérables) を正しく発音するのもおぼつかない」(マッキントッシュ)という状況にあって、ロンドン版では『レ・ミゼラブル』という物語そのものを伝えることに重きが置かれ、1980年パリ公演の改訂版としての『レ・ミゼラブル』を創り上げていくこととなる。 オリジナル版を制作したアラン・ブーブリル、クロード=ミッシェル・シェーンベルク、さらには作詞家ハーバート・クレッツマーもクリエイティヴ・スタッフに加わり、1985年10月28日、バービカン・センターにおいてロンドン版『レ・ミゼラブル』が幕を開けた。ロンドン公演は開幕するやいなや、たちまち大人気となり、その後パレス劇場 (en)、クイーンズ劇場 (en) と場を移して、現在もロングラン公演中である。 初演時の主なキャスト ジャン・バルジャン コルム・ウィルキンソン (Colm Wilkinson) ジャベール ロジャー・アラム (Roger Allam) エポニーヌ フランシス・ラッフェル (Frances Ruffelle) ファンティーヌ パティ・ルポーン (Patti LuPone) コゼット レベッカ・ケイン (Rebecca Caine) マリウス マイケル・ボール (Michael Ball) テナルディエ アラン・アームストロング (Alun Armstrong) テナルディエ夫人 スー・ジェーン・タナー (Sue Jane Tanner) アンジョルラス デイヴィッド・バート (David Burt) ガブローシュ イアン・タッカー (Ian Tucker)、オリヴァー・スペンサー (Oliver Spence)
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作品誕生の経緯
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「1・0・∞のボール」の記事における「作品誕生の経緯」の解説
丑久保健一がこのボールの作品を作り始めたのは1970年の半ば。へこんだボールを制作するきっかけとなったのが実家のそばの小学校の校庭に置き忘れられた少しへこんだボールの情景だった。広い校庭にぽつんと置きざりにされたボール、少し空気が抜け上がへこんでいる。丑久保健一の意識に常にあった「一つのモノの中に同居する緊張と緩和」の状態。へこんだボールの制作は継続されて数を増やしていき、やがて108個という数になる。108はすなわち、「1」は始源であり、「0」は無、そして、「8」は横にすると「∞」で無限を表す。つまり、この世のすべてを表現している。
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作品誕生の経緯
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「ヨーロッパ退屈日記」の記事における「作品誕生の経緯」の解説
『ヨーロッパ退屈日記』誕生のきっかけは、伊丹が作家の山口瞳とはじめて出会った1954年(昭和29年)に始まる。当時伊丹は商業デザイナーとして河出書房に勤めていたが、同社が発行していた雑誌『知性』の編集人であった山口と偶然親交を結ぶことになった。この交友関係は『知性』が廃刊になるまで続く。 やがて伊丹は俳優の勉強をすべく出版社を退社、新進俳優として1960年(昭和35年)に大映に入社したが、翌年にはフリーになり渡欧し、映画『北京の55日』に出演。1962年(昭和37年)に帰国した伊丹は文藝春秋新社から原稿依頼を受け、ヨーロッパ滞在時の逸話を基にした短文を書いたが不採用となった。理由はこの短文が映画、ファッション、スポーツカー、語学など多岐にわたるテーマについて、話し言葉を多用した一見気障に思われるような独特の文体で書かれたものであるため、当時の高踏的な文芸誌にふさわしくないものと判断されたと推察される。 文藝春秋新社は、伊丹の原稿を不採用にしたものの、原稿を壽屋のPR誌『洋酒天国』に応募するよう勧める。当時、壽屋には河出書房を退社していた山口が勤めており、ここで伊丹は約7年振りに山口と再会した。伊丹の応募原稿は無事に採用されることになり、山口によって『ヨーロッパ退屈日記』と名付けられ、『洋酒天国』第56号(1963年1月発行)に、俳優時代の芸名である「伊丹一三」名義で発表された。この記事は好評で、月刊誌『婦人画報』から続編の原稿依頼を受け、同じタイトルで同誌の1963年6月号から1965年5月号まで連載を続け、既発表分に数篇の書き下し記事を加え、単行本として『ヨーロッパ退屈日記』のタイトルで出版された。 これは、伊丹十三の文筆家としてのデビュー作であると同時に、今日、文学ジャンルとして「随筆」とはやや異なるニュアンスで用いられるようになった、本格的な「エッセイ」が、戦後の日本に誕生した瞬間でもあった。
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作品誕生の経緯
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梅谷松太郎は、1914年 (大正3年) に明治大学専門部法科を卒業後、釧路毎日新聞社、札幌木材株式会社、朝ノ気商会を経て読売新聞社の記者となり、『舵取り物語』などの連載記事を手がけたのち、1926年 (大正15年) に東京日日新聞社の社会部へ移った。 その頃の夏場の新聞業界は「夏枯れ」と称されるほどに社会部の記事が乏しく、それを補うために業界用語で「囲み物」と呼ばれる軽い読み物を掲載することが通例となっていた。1927年 (昭和2年) の夏、東京日日新聞社会部部長であった小野賢一郎は、その頃東京で開催された「世界料理博覧会」を観て、各界の著名人から取材した食についての聞き書きで紙面の穴埋めをすることを思いつき、社内で囲み物の名手として知られていた梅谷に取材と記事の執筆を命じる。執筆にあたって小野は「記述は平明、誰もが興味を持ち且つ分かる内容、話題は豊かに」といった指示をした。 1927年 (昭和2年) 8月17日、東京日日新聞にて『味覚極楽』の連載開始。聞き取り取材の対象となった人物は当時の華族、政財界人、軍人、文化人などが中心となった。梅谷は、語り手から食を通じてその人生観などもうかがえるような談話を多く引き出し、取材用の録音機材がない時代であるにもかかわらず、各々の語り口をも再現した記事にまとめ上げていった。連載には200通もの投書が寄せられるほどに注目が集まり、同年10月28日に通算70回をもって終了した。
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