作品誕生の経緯とその概要
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「気まぐれ美術館」の記事における「作品誕生の経緯とその概要」の解説
洲之内徹は、東京美術学校建築科に在学中に、プロレタリア運動に参加したため、検挙され収監されたが、転向し釈放。第2次世界大戦勃発後は中国大陸に渡り、諜報活動に従事していた。1946年(昭和21年)の復員引揚後は、古本店を営みながら小説を書きはじめ、1958年(昭和33年)に、友人の小説家、田村泰次郎の経営する画廊「現代画廊」に入社。支配人として働きながら小説を執筆。芥川賞に何度か推されたが受賞には至らなかった。1960年(昭和35年)9月、田村が画廊経営から手を引いたのを機に、洲之内が経営を引き継ぎ小説家として作品を発表しながら画廊経営を続けた。 1973年(昭和48年)に、美術に関する初めての書き下ろしエッセイ集『絵のなかの散歩』を上梓、翌1974年から月刊誌「藝術新潮」にエッセイを連載することになった。連載にあたって、洲之内はメイン・タイトルをどうするかいろいろ悩み、『絵で考える』、『本日休館』、『絵のない美術館』、『画廊の灰皿』、『芸林彷徨』、『芸林無宿』などの候補が挙がったが、結局『気まぐれ美術館』に決定し、同年の新年号から連載を開始した。自身が収集した美術品にまつわる話題を中心にしたこのエッセイは好評で、洲之内は執筆の軸足を小説からエッセイに移し、以後は画商とエッセイストとして活動した。連載は、洲之内が急逝する1987年(昭和62年)秋まで通算165回を数えた。
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作品誕生の経緯とその概要
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「父の詫び状」の記事における「作品誕生の経緯とその概要」の解説
向田は、1952年(昭和27年)から市川三郎のもとで脚本の書き方を学び、1960年(昭和35年)ごろから脚本家としてテレビドラマのシナリオを中心に執筆活動をはじめた。『時間ですよ』などヒット作品を数多く生み出し、1970年代を代表する人気脚本家として華々しい活躍を続けていたが、1975年(昭和50年)、乳癌が発見され入院。幸い初期段階であったため、手術は無事に成功し、翌年には退院した。しかし手術時の輸血が原因で肝炎を発症したために施された絶対安静措置が手術創の拘縮を助長し、右腕が利かなくなる後遺症が残っていた。 そんな折り、当時文藝春秋の相談役であった車谷弘から都市情報誌『銀座百点』への随筆連載を打診される。向田は自分をためしてみるため、左手で執筆することを思い立ち、連載の依頼を快諾した。向田は子供時代の自分の家庭の回想を中心に日常的な話題を盛りこんだ随筆を執筆。『銀座百点』の1976年(昭和51年)2月号から1978年(昭和53年)6月号にかけて約2年間にわたって連載を続けた。向田の随筆家としてのデビューとなったこの連載は好評で、連載終了後間もなく『父の詫び状』のタイトルで単行本化された。昭和における日本の家庭像を見事に描いたものとして、今日では向田の代表的な随筆作品と評価されることが多い。
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