現代画廊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/07 02:38 UTC 版)
「現代画廊」は最初は作家で美術マニアであった田村泰次郎が1959年に西銀座に開いた画廊であった。田村が画廊を開いた目的は国内外の抽象絵画の紹介であったが、それは画廊を手伝うために入社した洲之内の嗜好とは必ずしも一致しなかった。ほどなく1961年に経営不振で田村が手を引くと、洲之内が店の名を引き継ぎ、同じビルの3階へ移って、「萬鉄五郎展」で新装開店した。 やがて1968年に画廊は銀座6丁目の松坂屋の裏手にある古いビルの3階に引っ越し、本人が「銀座で一番ちっぽけな画廊」と自負する、いわゆる「洲之内徹の現在画廊」の時代が始まった。このビルは関東大震災直後に建てられた堅牢な建物で、その由緒ある年代物のエレベーターは「扉の開閉ひとつにもコツが必要で」「訪れる人にしばしば敬遠」されたという。この場所で洲之内は最初にかねて想を温めていた「靉光画稿展」を開き、その後もさまざまな異色の展覧会を企画・開催して、倒れる1987年までの約20年間にその数は260回を超えた。またここには多くの個性あふれる人々が往来した。 画廊主としての洲之内は自分が「佳い」と思った多くの無名画家に個展の場を提供し、またしばしば物故した画家の遺作展を開いた。遺作展の準備には中古のライトバンを自身で運転して現地に赴き、関係者と折衝し、その作品の所在を確かめて出品を依頼するなどの作業を精力的にこなした。こうして洲之内は佐藤哲三を始めとする多くの画家を発掘、紹介し、またその経緯をこと細かく「気まぐれ美術館」に書いてエッセイの人気を高めた。 また洲之内はしばしば地方の画廊と連携して「現代画廊」で開いた展覧会を地方に巡回させ、売り上げ増加を図ったが、その作品の移動にも経費節約のため自分の車を使った。「売れない画家ばかり扱っていた「現代画廊」の経営は大変だったようである」が、「洲之内には不思議な商才があって、なんとか辻褄を合わせて」いた。また美術評論家の土方定一を尊敬していた。
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