不断光院とは? わかりやすく解説

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不断光院

読み方:フダンコウイン(fudankouin)

宗派 浄土宗

所在 鹿児島県鹿児島市

本尊 阿弥陀如来

寺院名辞典では1989年7月時点の情報を掲載しています。

不断光院

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/28 06:30 UTC 版)

不断光院
不断光院の外観
所在地 鹿児島県鹿児島市易居町1-10
位置 北緯31度35分50.1秒 東経130度33分31.2秒 / 北緯31.597250度 東経130.558667度 / 31.597250; 130.558667座標: 北緯31度35分50.1秒 東経130度33分31.2秒 / 北緯31.597250度 東経130.558667度 / 31.597250; 130.558667
山号 養泉山
院号 不断光院
宗旨 浄土宗
宗派 鎮西派
寺格 知恩院末寺
創建年 永禄5年(1562年)
開山 清誉
中興年 文政元年(1818年)
中興 島津重豪
正式名 養泉山無量寺不断光院
法人番号 8340005000607
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不断光院(ふだんこういん)は、鹿児島県鹿児島市易居町にある浄土宗知恩院の末寺。

沿革

永禄5年(1562年)島津貴久が建立し、京都不断光院の住持であった清誉を招いて開山とした。文政元年(1818年)、島津重豪が本寺を再興し、本堂院房を建立した[1]

江戸時代までは鹿児島市長田町の私立南風病院周辺に所在していた。薩英戦争時には、自然の山と山下の館によって構成されていた鹿児島城と比べ、山斜面に寺院施設があったため、島津氏の本城と誤認されて英国艦隊の砲撃により罹災した。

廃仏毀釈に遭い明治に現在地に復興、太平洋戦争時にも罹災した。昭和35年(1960年)に本堂が、昭和62年(1987年)に鐘楼門と信徒会が完成した[2]。 正面の仁王像は廃仏毀釈時に土中に隠匿されたものを農民が後世掘り出し、販売していたところを買い戻したものという。

山門の様子

史跡

脚注

  1. ^ 第4編 近世編、第4章 宗教のうごき 鹿児島市史第1巻、昭和44年2月発行、p526
  2. ^ 第5編 文化、第4章 宗教 鹿児島市史第4巻、平成2年3月発行、p991


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