三路線の提案
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頓挫の憂き目に遭った弾丸道路計画だが、大戦終結後の混乱もやがて収まるにおよび、輸送体系の整備としての東京 - 神戸間における高速道路の計画が主に3つの機関から発案されるに至った。一つは静岡県出身の有力実業家、田中清一による計画で、1947年(昭和22年)頃に提唱した「平和国家建設国土計画大綱」である。計画の趣旨は、敗戦後の食糧難にあえぐ国民を立ち直らせ、高度の生活を営むためには食料の自給自足と未開発資源の大規模開発が必要であるとして、農地に適する平野部は人口過密と産業集中にあることでこれを山間部へ移し、入替えに平野部を農耕地に転用するというものであった。それを具現化する手法として田中は幹線道路網の必要を挙げた。山間地が占める内陸部に幅100 mの大幹線道路を列島の東西に通し、そこから太平洋岸と日本海岸の重要港湾に向けて支線道路を複数設けるという、背骨と肋骨の関係にも似た道路網を構築する計画であった。つまり、大幹線道路に沿って平野から移転させた軽工業、各種研究と試験場、精密工業、学校、官庁等を再配置し、道路に沿う大河川には水力発電所を建設し、併せて道路開墾により重要地下資源と観光資源の開発までも行うという趣旨である。その計画遂行の最初の一手として、東京 - 大阪間の道路計画に着手するべきであり、東京 - 大阪間を最も短絡する中部山岳地帯を通ることを提唱したが、これが後述する中央道案の原形である。この発想は戦時下において内務省土木局が計画した路線網と対照的で、この相違が後述する論争の種となった。もっとも、田中が構想した高速道路は、インターチェンジからのみ出入可能な完全出入制限型の道路であったかどうかは不明である。こうした田中の国土復興のための道路プランに共鳴したのが、のちに中央道派を牽引していく青木一男であった。 田中が計画を推し進めている頃、別のもう一案が構想された。これが久しく途絶えていた弾丸道路計画の再始動であり、建設省が1951年(昭和26年)に提唱した東京 - 神戸間の高速道路構想であった。これは、サンフランシスコ平和条約の締結後、戦後日本を平和国家として再出発させるにあたり、外資を導入した事業を推進し、日本経済の再建に役立てようとする動きの中から生まれたものであった。その対象事業の一つに高速道路の建設を選択しようという気運が首相の吉田茂を介して生まれ、建設省に資料の提出を求めた。同省はそれに応え、戦争により中断した東京 - 神戸間の高速道路計画を再検討することにした。再始動した計画が戦時下のものと異なるのは、有料道路として検討されたことである。このため、果たして高速道路を新設することが経済的に成り立つのか、必要資金の調達方法や運営者を誰にするのか、という問題提起がなされ、それに道筋を与えるために経済調査と技術調査を行った。概ねまとまったところで、1952年(昭和27年)2月以降、アメリカ人コンサルタントを2人招いて調査を依頼した。その結果、東京から神戸に至る道路は、日本の全人口の30パーセントにあたる2,600万人に対して利益をもたらし、全国総生産額の半分以上にあたる15億円の年間生産額を有する地域を通過することで、全く健全な投資と考えられる。よって、東京 - 神戸間の高速道路は経済的に十分実現性があり、有料道路としても交通量の激増からみて、通行料金収入によって十分採算の採れることは疑う余地がない、との回答を得たが、このルートは東海道を考慮した計画であった。この一連の調査は5年間に6,300万円の調査費を投じて行われ、その成果として「東京神戸間有料道路計画書」が公表された。しかしながら、公表のタイミングがときあたかも中央道案が具体化した時期と重なったこともあって、両案を巡る対立が次第に表面化することになった。 産業計画会議は東海道の海岸利用を強く主張した。画像左 : 静岡県湖西市の白須賀海岸。海岸にPC工法で高架橋を造る計画であった。画像右 : 小田原市内の相模湾に沿って走る東海道線。計画では湯河原までが海岸利用、以西の三島までがトンネルの連続利用とした。よって、湯河原以東で撮影されたこの画像に見える相模湾沿いを高速道路が走る計画であったが、日本道路公団は高速道路と新幹線、国道の競合があることを問題視した。 この2案より遅れて第3案がシンクタンクの「産業計画会議」により提案された。このシンクタンクは電力界の鬼才の異名を持つ松永安左衛門が1956年(昭和31年)に設立したもので、1958年(昭和33年)に至って「東京・神戸間高速自動車道路についての勧告」として独自に考案した東海道案を前面に打ち出したのであるが、ルートが建設省案と微妙に異なった。原則的に全線高架式で、海岸沿いに建設することを主張し、「東海道海岸路線案」を称した。海岸にこだわったのは公有地の多さから土地の買収が早くて取得費用も安い、高架橋にこだわったのは盛土では締め固まりに時間を要するためである。松永の計算では、工期5年、工費は土地収用費を別にしても2、3割安くできるとした。特にプレストレスト・コンクリート工法で橋を造ることで、盛り土に比べて工費で差はないか、多少高くなる程度と主張した。そして将来、交通量が増えたときは、その上に道路を積み増すことで二階建てとすることも可能で、それを考慮してトンネルは天井を少し尖らせて造っておきたいという。また、漁業に対する補償問題もあろうが、遠洋漁業は衰退しており、小舟の漁業は東海道ではあまり見られず、あるとすればアサリかタコを探すくらいであるとして、見通しはかなり楽観的であった。これを受けて建設省は自案と東海道海岸路線案を比較したが、それは東京 - 名古屋間の長距離におよんだ。東海道海岸路線案は、東京都大田区から藤沢を経て、相模湾、駿河湾、遠州灘と海岸に沿い、蒲郡から一宮まで直線で結ぶことが特徴であった。利点としては、海岸地帯の開発に役立ち、120 km/h走行可能な区間が全体距離の半数を占めることがあった。しかし海岸案が決定された場合、国道や東海道新幹線との路線競合が多く、特に小田原 - 熱海間において甚だしくなる。さらに、漁業権や海水浴施設、海岸砂防施設等に対する補償問題、客土の多さ等の問題もあった。とりわけ、距離が建設省案と比較して20 km長く、走行経費が嵩張ることの他に、松永の主張と違って橋の工事費が盛り土の二倍であることを勘案して、海岸線案は最終的に却下された。
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