その他の西欧諸国のルネサンス
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「ルネサンス」の記事における「その他の西欧諸国のルネサンス」の解説
一般に、15世紀末から16世紀には、程度の差はあるが、ルネサンスの文化はアルプス以北の西欧や一部東欧諸国にも波及したと考えられている(北方ルネサンス)。しかし、ルネサンスを社会形態まで含めた総体的運動として捉えた場合、ルネサンスは本質的にイタリア固有の現象であって、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}絶対王政が確立しつつあった西欧諸国にルネサンスを認めない立場もある。[誰によって?] また、ルネサンスと宗教改革の関連についても議論がある。特にアルプス以北の諸国において、ルネサンスの一部である人文主義の研究は、宗教上のものと結びつきやすかった。とくにネーデルラントにおけるエラスムスの研究は、ルターやカルヴァン、ツヴィングリなど多くの宗教改革者に影響を与え、宗教改革の発端を作ったと考えられている。しかし一方で、宗教改革者と人文主義者との関係は必ずしも良好ではなく、ルターとエラスムスもお互いを敬して遠ざけた後、1524年から1525年にかけての自由意思をめぐる一連の論争で完全に袂を分かった。 以下に、一般に「ルネサンス」と評される各国の文化を挙げる。必ずしも古典の復興を目指したものとは限らないが、イタリア・ルネサンスに触発され発達したものや、明らかに中世文化とは異なる特徴を持つものなどが含まれる。これらは一時的な流行、単なる模倣に留まらず、各国の国民文化の核にもなっていったものである。 ネーデルラント 1384年から1477年までブルゴーニュ公国の支配下にあったフランドルでは、毛織物工業と貿易が活発であり、豊かな文化が花開いた。 絵画 - 15世紀のフーベルト、ヤンのファン・エイク兄弟が油絵の技法を完成させた。このころのネーデルラント絵画はイタリアと並び立つ水準にあり、むしろイタリア絵画に大きな影響を与えるほどであった(ただし、初期フランドルの絵画には古典の復興という要素がないため、中世末期の美術と見なす説もある)。それが16世紀頃には逆転し、イタリア・ルネサンスを手本とするようになった。ブリューゲル(1525年? - 1569年)もイタリア旅行をした後、独自の農村風景画を描くようになった。 思想 - 新約聖書をギリシア語から翻訳したエラスムス(1466年 - 1536年)が人文主義者として著名である。古代ギリシア語研究は、キリスト教を原点に遡って再検討することにつながり、次第に中世カトリックの権威を揺るがすものとなった。エラスムスは『痴愚神礼賛』でカトリックの堕落を風刺したが、宗教改革運動を起こしたマルティン・ルターとは袂を分かった。 音楽 - ネーデルラントの顕著な文化活動に、音楽の勃興と隆盛があった。ルネサンス音楽に関しては、初期から中期にかけてはイタリアよりもネーデルラント、とくにフランドル地域が重要であり、イタリアよりはるかに先行していた。フランドルのルネサンスは音楽から始まったといわれる。ギヨーム・デュファイによって中世西洋音楽からルネサンス音楽への転換がなされ、ジル・バンショワ、アントワーヌ・ビュノワと続くブルゴーニュ楽派、さらにその後のヨハネス・オケゲム、ヤーコプ・オブレヒト、ジョスカン・デ・プレと続くフランドル楽派(この2楽派を総称してネーデルラント楽派ともいう)が隆盛した。 「ルネサンス音楽」を参照 フランス イタリアの先進文化が伝えられ、国王の文芸保護政策もあって文化活動が活発になった16世紀は、フランス・ルネサンスの時代といわれる。(ミシュレ『フランス史』) 絵画 - イタリアに侵攻したフランソワ1世の時代(イタリア戦争の項を参照)にレオナルド・ダ・ヴィンチなどが宮廷に招かれ、イタリアのルネサンス美術が伝えられた。その後もロッソ・フィオレンティーノらがイタリアから宮廷に招かれ、マニエリスムの影響を受けたフォンテーヌブロー派が活躍した。 文学 - 古代ギリシアの医学を研究したラブレー(1483年 - 1553年)は『ガルガンチュワ物語』を著した。荒唐無稽な巨人の物語であるが、既成の権威を風刺した内容で、活版印刷で刊行され、禁書処分を受けながらも広く読まれた。このほか、16世紀中頃にはロンサールなど古典文学を学んだ若い詩人ら(プレイヤード派)が文学運動を起こした。またアリストテレスの演劇論などが影響を与えた。これらの動向は、17世紀のフランス古典主義文学(コルネイユ、ラシーヌなど)に継承されていった。 「フランス・ルネサンスの文学」を参照 思想 - ユグノー戦争期に生きたモンテーニュ(1533年 - 1592年)はフランスのルネサンス期を代表する思想家といわれ、セネカらの引用と自己の考察を綴った『エセー』(随想録)で知られる。 ドイツ 絵画 - デューラー(1471年 - 1528年)が有名である。イタリア旅行を経て、ルネサンス絵画に学び、思想的にも深みのある表現に達した。銅版画の「メランコリア I」や油彩の「四人の使徒」などの宗教画がよく知られている。 思想 - ルターの宗教改革はルネサンスの人文主義者による聖書の原典研究が進んだことが背景にある(前述)。 イングランド 一般にイングランドにおけるルネサンスの最盛期は16世紀のエリザベス朝で、ピューリタン革命(1642年 - 1649年)によって幕を下ろしたとされる。 「イギリス・ルネサンス演劇」を参照 文学 - ジェフリー・チョーサー(1340年 - 1400年)がボッカッチョの影響を受け『カンタベリー物語』を著している。その後、エリザベス朝期には古代ギリシア以来とも言われるほど演劇が盛んになり、古代ローマの思想家でもあるセネカの書いた『オイディプス』等の悲劇が英語に翻訳され、大きな影響を与えた。イングランドの後期ルネサンスを代表する劇作家シェイクスピア(1564年 - 1616年)の存在もこの流れの中にある。ただし、シェイクスピア自身はラテン語・ギリシア語についての知識はあまりなく、イタリアを舞台にした劇を書いてはいるが、実際に訪れたことはない。 思想 - 『ユートピア』で知られるトマス・モア(1478年 - 1535年)はイングランドの代表的な人文主義者であり、フィチーノの著作に影響を受け、エラスムスと交友を持った。また、フランシス・ベーコン(1561年 - 1626年)はセネカの思想の影響を受け、『随想録』を執筆した。 スペイン 絵画 - エル・グレコ(1541年 - 1614年)が知られる。クレタ島出身のギリシア人でヴェネツィア・ローマを経てトレドに移り住む。マニエリスムの影響を受けながらも、独自の神秘的な画風を築いた。 文学 - 小説家セルバンテス(1547年 - 1616年)は、スペインのエラスムス主義者フワン・ロペス・デ・オーヨスの弟子であり、20代初めにローマで枢機卿に仕え、イタリアの先進文化にふれた。1605年に出版された「ドン・キホーテ」は当時ベストセラーになり、現在では「近代小説の始まり」と評価されている。 俗語で書かれた文芸作品も多く(「神曲」、「デカメロン」、「カンタベリー物語」、「ガルガンチュワ物語」、シェイクスピアの戯曲、「ドン・キホーテ」など)、各国の国語が形成されていった時期に重なっている。一方、各国の知識人が交流する上で、中世以来の国際語であったラテン語の役割も見逃せない。例えばネーデルラントのエラスムスとイングランドのトマス・モアはラテン語という共通語があったことで、思想的な交友を持つことができた。 なお、建築の分野では、イタリアで生まれたルネサンス建築が規範となり、他の国にも普及していった。古典様式をいかに理解し消化するかが課題となり、それぞれの国で特色ある様式が生まれた(北方ルネサンス建築の項を参照)。ルネサンス以降、古代ギリシア・ローマを範とする古典主義建築が正統的な建築様式と見なされるようになり、20世紀に至るまで権威を保った。
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