ルネサンスと宗教改革
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「無神論の歴史」の記事における「ルネサンスと宗教改革」の解説
ルネサンスと宗教改革の時期には、キリスト教が優勢な国々でも宗教組織に対する批判が頻繁になされるようになったが、これ自体は無神論だということにはならない。 「athéisme」という言葉は16世紀にフランスで作られた言葉である。「atheist」という言葉が英語の書物に現れるのは少なくとも1566年に遡る。無神論の概念は、この時期には初め宗教改革や啓蒙時代の理性的・宗教的騒乱に対する反応として再興した。論争において自分以外の人が推す立場に神の否定や不信心を見て取った人々がその相手を非難する際に用いたのである。16-17世紀には「無神論者」という言葉は侮辱目的にのみ使われた。それゆえ、当時は誰も無神論者とみなされることを望まなかった。テオフラストゥス・レディヴィヴス(英語版)の名で知られる明らかに無神論的な概説書が17世紀に匿名の人物によって発表されたが、無神論は道徳律の欠如を示す形容辞であり続けた。当時無神論者だと非難されることがいかに危険なことであったかを示す例として、1546年に絞首の後焚刑に処されたエティエンヌ・ドレ、1619年に同様の最期を迎えたジュリオ・チェーザレ・ヴァニーニがいる。伝えられるところによると哲学論文『神が存在しないことについて』(ラテン語: De non existentia Dei)で神の存在を否定しているポーランドの貴族カジミェシュ・ウィシュチンスキ(英語版)は1689年にワルシャワで死刑宣告を受け、焼けた鉄で舌を引っこ抜かれて手もゆっくりと焼かれ、最終的に斬首された。1766年にも同様に、フランスの貴族ジャン=フランソワ・ド・ラ・バール(英語版)がキリスト磔刑像に対して狼藉を働いた廉で拷問を受け、斬首され、胴体を焼かれている。最後の例はヴォルテールが判決を覆そうとし(たが失敗し)たことで有名である。 こういった無神論だという非難を受けた人々の中でも、啓蒙時代の最も傑出した哲学者であり、『百科全書』の主たる編集者のドゥニ・ディドロは宗教的なドグマ、特にカトリックのドグマに対して挑戦している。彼は「理性の哲学者に対する関係は恩寵のキリスト教徒に対する関係と同じである」と書いている。「恩寵がキリスト教徒の行動を規定する;理性が哲学者の行動を規定する。」 ディドロはこういった発言のために一時収監され、著作のうち幾分かは禁書とされ焚書された。 イギリスの唯物論哲学者トマス・ホッブス(1588年–1679年)も無神論者だと告発されたが、彼はそれを否定した。彼の神論は特殊なもので、神を物質的な存在として捉えるというものであった。彼に先んじて、イギリスの劇作家・詩人のクリストファー・マーロウ(1563年–1593年)が、自宅からキリストの神性を否定する小冊子を見つけられて無神論者として告発された。彼はその告発に対して自分を弁護し終える前に殺されたが、この殺されたことは宗教的な問題とは関係のないことであった[要出典]。
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