ルネサンスへの刺激
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 02:55 UTC 版)
「フィレンツェ公会議」の記事における「ルネサンスへの刺激」の解説
この公会議では会期の前後にイタリアにギリシアから知識人が亡命したり、ギリシア語文献が伝えられ、ルネサンス思想に大きな影響を与えることになった。フィレンツェの人文主義者は当時プラトン哲学など、古代ギリシアの文献に注目していたが、ほとんどギリシア語を読めなかった。一方、ビザンツ帝国はギリシア語が公用語で、当時「パレオロゴス朝ルネサンス」と呼ばれる古代ギリシア語研究が盛んな時期でもあった。公会議にはビザンツ帝国から多くの知識人が参加したため、フィレンツェでは彼らを歓迎し、多くの知識を学んだ。ビザンツ帝国の知識人として、ヨハンネス・ベッサリオン、ゲオルギオス・ゲミストス・プレトンらの名前がよく知られている。 ゲオルギオス・ゲミストス・プレトン(プリソンとも、1360年? - 1452年)。フィレンツェ公会議の際に行ったプラトン講義は、フィレンツェのプラトン熱を高め、のちにコジモ・デ・メディチがプラトン・アカデミーを始めるきっかけになった。プレトンという名自体、プラトンにちなんで改名したものである(姓のゲミストスとは同義語である)。帰国後はミストラにて教育・研究活動を行い同地にて没。遺骨はイタリアに運ばれて再び埋葬された。 ヨハンネス・ベッサリオン(ヨアニス・ヴィサリオンとも、1403年 - 1472年)。公会議後もフィレンツェに残り、古典文献を収集しフィレンツェにもたらした。のちにカトリックへ改宗し、枢機卿になった他、1451年以来空席となっていたコンスタンティノープル総大司教に任命された。ただし、これは名目的なものである。
※この「ルネサンスへの刺激」の解説は、「フィレンツェ公会議」の解説の一部です。
「ルネサンスへの刺激」を含む「フィレンツェ公会議」の記事については、「フィレンツェ公会議」の概要を参照ください。
- ルネサンスへの刺激のページへのリンク