ルターとエラスムス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 09:52 UTC 版)
「デジデリウス・エラスムス」の記事における「ルターとエラスムス」の解説
1517年に若き聖アウグスチノ修道会員マルティン・ルターが発表した『95ヶ条の論題』は本人の予想も超えるほどの大きな反響を呼び起こした。エラスムスは当初、ルターが自分を尊敬し、自分の著作に影響されていたことを知り、その「聖書中心主義」思想に好意的な態度をとっていた。この頃、ルターはエラスムスからの励ましを受けて感激している。エラスムスはルターが不当に断罪されることがないよう手を尽くしながらも、教会の分裂を引き起こさないようルターに自重を求めた。 しかし、ルター自身の活発な活動により、事態は過激化・複雑化し、当時のドイツ情勢とからんで政治問題化していった。この状態はエラスムスの想定を超えたものであり、ルターとエラスムスの思想の違いが明らかになっていった。エラスムスはあくまでキリスト者の一致が最優先事項と考えており、教会の分裂を望んでいなかった。結果的にルターの支持派・反対派双方から疎まれることになる。 ヘンリー8世のアイデアとトマス・モアの書簡に触発され、エラスムスはカトリック教会内で古代から議論が続けられてきた自由意志の問題についての著作『自由意志論』(De lebero Arbitrio, 1524年)を執筆した。自由意志の問題はルター思想の骨子であったため、ルターはこれを看過できず、対抗する形で『奴隷意志論』(De servo Arbitrio) を発表。エラスムスはさらにそれに対する『反論』(Hyperaspistes, 1526年)を著しているが、結局これを最後にエラスムスは泥沼化したルター問題から手を引いた[要出典]。
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