京都 京都の概要

京都

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/17 01:49 UTC 版)

新旧京都の象徴
平安京羅城門模型と京都タワー

概要

京都の位置

、もしくはともいい、歴史的には794年以降日本の首都であった平安京で、当時は日本の政治文化の中心地であった。

現在の京都は、包括的地方公共団体・京都府の地域や、その府庁所在地たる基礎的地方公共団体・京都市の地域を指す。

金閣寺、清水寺などが、世界文化遺産に登録された。

京都は3方向を山に囲まれ、自然豊かな場所。

名称

「京都」の由来

東アジアでは古来、歴史的に「天子様の住む都」「首都」を意味する普通名詞として京(きょう)、京師(けいし)が多く使用されていた。西晋時代に世宗である「師」の文字を避けて京都(けいと)というようになり、以後は京、京師、京都などの呼び名が用いられた。

日本でも飛鳥京恭仁京などが「京都」とも呼ばれた。平安京を指して日本の文献で「京都」という言葉が使われている初出(しょしゅつ)つまり学術的に存在が確認されている最古の文献は『中右記』(承徳2年、1098年)であり、「3月21日条」で使われている「京都」である(ただしこの「京都」が普通名詞なのか固有名詞なのかは判断が難しい)。なお平安京は造都当時は「北京」とも呼ばれた。(なおこう呼ぶ場合、奈良の平城京のことを対比的に「南京」と呼んでおり、以後長らく奈良の代名詞としては「南都」が多用された。)

つまり造都当時は平安京の普段の呼び方が定まっていなかったのである。平安京を「京都」と呼ぶことが定着したのは平安時代後期からで、「京」や「京師」という呼び名も併用されていた。その後、次第に「京の都」(きょうのみやこ)、「京」(きょう)、「京都」(きょうと)などが平安京を指すための固有名詞のようになり定着していった。

なお、ここで参考までに「京」の俗字「亰」についても言及しておく。

日本における「亰」の字の用例も「京」に負けないくらい古く、正倉院蔵の『雑集』に既に「平城亰」の用字が見える。聖武天皇の筆になる上品な筆致である。大坂では、生國魂神社の北門近くに「右亰道」の石碑がある。天保十五年冬十月の建立である。京都で現在でも目につきやすい用例は、亰都織物會社の建物だろう。煉瓦造りの壁面に「亰都織物會社」の石板が嵌めこまれている。明治二十年(一八八七)に設立許可を受けた同社は南京繻子などの生産で知られたが、昭和四十一年(一九六六)ごろに、京都大学東南アジア研究センターへ土地建物を譲渡して解散した。

「長安」「洛陽」「洛」という呼び方

かつて京都に存在し、日本一の高さを誇っていた方広寺大仏(京の大仏)のスケッチ[4]。方広寺大仏は洛陽大仏・洛東大仏とも称されていた。

平安京(京都)は、古く詩文において中国王朝の都に因み洛陽長安などとも呼ばれた。一説に、平安京を東西に分割し、西側(右京)を「長安」、東側(左京)を「洛陽」と呼んだという。これらの呼び名が定着した時期は明らかになっていない。「命名の記録もなく、これら「長安」「洛陽」が正式名称であったとは考えられず、文学上の雅称であったと考えられる。[要出典]」。「長安城」という呼び方は平安中期で一旦姿を消し、再び現れるのは鎌倉末期以降、拾芥抄において洞院公賢が「東京号洛陽城、西京号長安城」と付記して以降のことである。ところが、右京すなわち「長安」側は湿地帯が多かったことなどから程なく廃れ、市街地は実質的に左京すなわち「洛陽」だけとなった。このため、「洛陽」とはすなわち京都を指す言葉になり、その一字を採って「洛」だけでも京都を意味することになったとされる。「本朝文粋」に収められた源順(911 - 983)が書いた漢詩に平安京を指して「洛城」と呼ぶ例が見られる。これをもってして「洛」の一字をもって京都を表す慣習は早くから成立していたと考えられる。また「平安時代史事典」によると一説に、平安初期の文学に現れる洛陽、長安はそれぞれ左京、右京を指しているとは考えられず、ともに都全体を指していると考えられるところから、長安とも洛陽とも呼んでいたものが、のちに「洛陽」のみが使われるようになったと考えられるという(出典:「平安時代史事典」『洛中』)。京域内を「洛中」と呼び、京域縁辺を「洛外」、京都以外から京都へ行くことを上洛と呼んだ。特殊な例ではあるが「下洛」という呼びかたも平家物語に見られる。これは山法師が京中を侵すことを指した。

「洛陽」という呼び方は現在でも私立洛陽総合高等学校といった固有名詞に残る。

「洛」のほうに関しては、現在でも京都に行くあるいは来ること、すなわち京都入りを「入洛」ということがある[5]。 また今日の「洛南」「洛北」「洛西」「洛東」などといった表現はいずれも、京の外側の南・北・西・東を指す表現にすぎないが、これらの表現も京のことを「洛」の字で指すことで成立している。

歴史

平安遷都

平安京復元模型(京都市平安京創生館で撮影)

京都は、桓武天皇784年長岡京に続いて、794年平安京に遷都したことに始まる千年の都である。京都に都が移された理由は諸説ある。例えば、長岡京の建設責任者であった藤原種継が暗殺されたことや、長岡京が桂川や小畑川氾濫によりしばしば水害に遭ったからとする説、長岡京での早良親王怨霊説などである。

平安京は中国風水[注 1]に適う地(「四神相応の地」)として撰地されたとの伝えがあり、南に開け、他の三方を山に囲まれ、東に鴨川が、西に桂川が蛇行しながら南へと流れている。

京域は、東西約4.5km、南北約5.2kmの長方形で、内部は正方形の街区をもっていた。これら街区は、平城京では街路の中心線を基準としていたため街路の幅の違いによって宅地面積の広狭差が生まれたが、平安京では街路の幅を除いて形成されたため、場所による宅地の広狭が生まれることはなかった。本来なら羅城を巡らすべきであったが、羅城門の両側のみ羅城風の塀を設けた。南北は北辺の一条大路から九条大路まで、東西は東京極大路から西京極大路まで、皇居と官庁街を含む大内裏は一条大路と二条大路の間、(東)大宮大路と西大宮大路の間に設けられた。現在の千本通が当時の南北の中心街路である朱雀大路にあたり、真北には造都の基準となったとされる船岡山が位置していた。また、大内裏のすぐ南には禁苑である「神泉苑」が設けられ貴顕の遊びの場となるとともに干ばつに際しては雨乞いの場となった。この池は太古に京都盆地に広がっていた「古京都湖(古山城湖)」の名残とされる。平城京で寺院の政治介入が甚だしく悪弊をもたらせたため、京域内の新設寺院は官寺である東寺と西寺に限られた。造都に際して河川の付け替えが行われたとされ、堀川は鴨川の旧河道との説があるが、異論もある。

建設開始から12年後の805年に、民苦を理由として新京造営を司る造宮職(ぞうぐうしき)が廃止され、計画された右京区の約半分が未完成のまま、平安京の建設は終了した[6]。近年の研究では、平安京は歴史の教科書の図面のように整然とした都市ではなく、左京に偏った都市になっていたと考えられている[6]

平安時代律令制の形骸化にともなって次第に本来の領域にとらわれない、鴨川と大内裏御所を中心とする都市になり、経済的に発展していった。平安中末期には東山山麓に法性寺、鴨川左岸に六勝寺鳥羽に貴族の別荘が建てられた。特に六波羅には当時隆盛を極めていた平氏一門の屋敷が軒を連ねた。

鎌倉幕府の設置

鎌倉時代にも京都の朝廷は政治機能を発揮していたが、東国支配を強めていた鎌倉殿1185年守護地頭の設置を認め、鎌倉幕府が全国支配を強めたため、京都は相対的に経済都市としての性格を強めた。承久の乱を契機に鎌倉幕府は平家の本拠地跡の六波羅に六波羅探題を設置して、公家勢力の監視を行う。鎌倉時代末期に足利尊氏が六波羅探題を滅ぼし、幕府滅亡後には京で後醍醐天皇による建武の新政が行われた。その後新政から離反した尊氏が北朝を立て、南北朝時代となると、京都争奪戦が何度も行われる(南北朝分裂以後、南朝による京都占領は4度行われたが、いずれも短期間で足利軍に撃退されている)。

室町幕府の設置

花の御所(洛中洛外図

南朝が衰微して室町時代になると京には室町幕府が置かれたために政治都市として復活する一方で経済発展を遂げ、町衆と呼ばれる有力市民による自治の伝統が生まれた。京内には武家の屋敷は建てないとするそれまでの慣習に反して足利尊氏が御池高倉辺に屋敷を構えると、以後次々と武家は市中に進出した。足利義満は北小路室町(上京区)に花の御所と呼ばれる邸宅を建造し、応仁の乱で焼失するまで将軍家の在所となり、足利将軍は在所から「室町殿」と呼ばれた。現在の小京都の起源は、当時の京都の街づくりの導入にたどれるともいわれる[7]

戦国時代・安土桃山時代

聚楽第

戦国時代の端緒となる応仁の乱で市街、特に北側の大半が焼失し、荒廃。その後もたびたび戦乱に巻き込まれた。この頃、京都は上京と下京に分かれ、それぞれ「構」によって囲まれていた。その間は畑になっていたといわれ、室町通でかろうじてつながっていた。 中世史家の瀬田勝哉は、応仁の乱以前の京都は激しい人口の増加によって絶えず膨張し輪郭と構造が掴みにくいが、応仁の乱を境として都市の枠組みが明確になり、内と外がはっきりとした都市となったと述べている[6]

この後、織田信長豊臣秀吉の保護と町衆の力により復興した。特に、秀吉の都市改造は大規模なもので、巨大な環状の御土居(おどい)の築造による、戦乱によって領域が曖昧になっていた京都の内側と外側(洛中、洛外)の確定(線引き)[8]聚楽第と武家町の建設、内裏の修理と公家町の建設、御土居の構築、洛中に散在していた寺をあつめた寺町寺之内の建設などを行い、現在でもしばしばその都市構造を確認することができる(→天正の地割)。天正19年、秀吉は伏見指月に隠居したが、文禄4年関白位を引き継いだ豊臣秀次が切腹すると、政治の中心は完全に伏見に移った。秀吉の没後も徳川家康伏見城に入り伏見は引き続き政治の中心地であった。また、この時代を中心に栄えた文化を桃山文化と呼ぶが、桃山の名称は江戸時代になって廃城された伏見城の跡地に桃の木が植えられ、安永9年『伏見鑑』が発行された頃から「桃山」と呼ばれるようになったことから名付けられたものである[9]

江戸幕府の設置

1696年の地図

関ヶ原合戦後、1603年3月24日慶長8年2月12日)に徳川家康が伏見城にて征夷大将軍に任官される。以後三代徳川家光まで伏見城で将軍宣下式を行っている。江戸幕府が誕生すると政治の中枢は徐々に伏見から江戸に移ったものの、こうした政都の移動にもかかわらず京都は国都であることに変わりはなく、徳川政権は、幕府の京都の拠点として二条城を築き、京都所司代京都町奉行を設置して直轄下に置いた。以後京都は文・工芸の中心地として人口が50万人を超え、最大都市の江戸や、天下の台所大坂に次ぐ都市として繁栄した。各藩も京都に藩邸を構え対朝廷及び各藩間の外交を行ったため、京都は独特の地位を有したが、幕府はこのことを好まず例えば西国大名が参勤交代の際、京都に入ることを禁じた。政情が不安定になった幕末は政治が再び京都を中心に動き[10]、幕府は京都守護職を置いて、その下で新撰組見廻組倒幕派の摘発を担った。

東京への首都移転から現在まで

京都と清水寺(1870年代)
MAP of KIYOTO(1873年)
京都周辺地図(1873年)

1867年11月9日慶応3年10月14日)の大政奉還により、統治権が幕府から京都の朝廷に返上されて新政府が誕生した。京都には京都府が置かれた(府藩県三治制廃藩置県参照)。しかし、天皇が江戸で直接政治をみるため、江戸を東京として行幸・滞在(東京行幸)することになり、太政官(政府)も移動された(東京奠都参照)。その後京都への還幸は延期され、明治天皇1877年(明治10年)に京都御所の保存を命じた。そして天皇の実際の居所は東京となった。これ以降から現在まで日本の首都は東京と認識されている。長州藩薩摩藩が中心となって打ち立てた明治政府は天皇を中心とした国づくりを進め、やはり天皇の実際の居所こそがまつりごとの場であり首都であると考えたからである。

(なお江戸のことを東のほうにある京という意味の「東京」と改称する構想は江戸時代後期の経世家である佐藤信淵が文政6年(1823年)に著した『混同秘策』にすでに現れていて[11][12]、佐藤は、日本が世界に躍り出るためにはそもそも日本の守りを強固にする必要があるので都は江戸に移し、江戸を「東京」と呼び、大阪を「西京」と呼び、東京・西京・京都の三京にする、という構想を記した。つまり佐藤の構想は京都は従来どおり「京都」と呼び続け、大阪のことを「西京」、江戸を「東京」と呼ぶものであった。この段階で、都を、つまり首都を、東に移す計画があったわけである。佐藤の書を読み影響を受けた大久保利通が江戸を東京と改称することを明治天皇に建言したという[11]。なお「西京」という名称については明治以降に実際に起きたことは佐藤の構想とは異なり、大阪ではなくて京都を「西京(さいきょう)」と呼ぶ風潮が京都で広まり、例えば第二次大戦後に新制大学として発足した京都府立大学は最初「西京大学」と称した。)

1879年(明治12年)には郡区町村編制法により、京都に上京区下京区の2区が置かれた。1889年(明治22年)には市制のうち三市に対して実施された市制特例により、上京区・下京区を存置したまま府管轄下に置かれる「京都市」となった。1898年(明治31年)に市制が改正[13]されたことにより、一般市と同等の市制が施行された。1956年昭和31年)9月1日からは政令指定都市に移行した。

現在の京都府は、江戸時代までの令制国の区分では、平安京が含まれている山城国のほかに丹後国丹波国の一部を含む。京都市は、京と別の都市だった伏見市や旧丹波国に位置する京北地域などに市域が広っている。


注釈

  1. ^ いわゆる「北に玄武、東に青龍、南に朱雀、西に白虎」を備えた「四神相応の霊地」のことをいうが、このことは遷都を記した「日本後紀」が断簡しか残らないために事実であったかは不明。四神相応の話は平家物語が今のところ初出。 四神を具体的に船岡山、鴨川などに充てる説の初出は1984年刊行の「京都大事典」。

出典

  1. ^ Kyōto (Japan), ブリタニカ百科事典, (2009), http://www.britannica.com/EBchecked/topic/326030/Kyoto 
  2. ^ Kyōto (prefecture, Japan), ブリタニカ百科事典, (2009), http://www.britannica.com/EBchecked/topic/326029/Kyoto 
  3. ^ エンカルタ:Kyōto, マイクロソフト, (2009), http://encarta.msn.com/encyclopedia_761566962/Ky%C5%8Dto.html 
  4. ^ ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー『ケンペルと徳川綱吉 ドイツ人医師と将軍との交流』中央公論社 1994年 p.95
  5. ^ 京都御所”. 環境省. 2021年8月10日閲覧。
  6. ^ a b c 横井清、網野善彦(編)、2003、「都の相貌、人間模様」、『都市と職能民の活動』、中央公論新社〈日本の中世〉 ISBN 4124902158 p.196-205.
  7. ^ 遠州の小京都
  8. ^ NHK「ぶらタモリ」2015年1月6日放送
  9. ^ 伏見・桃山は江戸時代のタウンページで使われ定着した名称 歴史研究グループが発表”. 伏見経済新聞. 2021年8月20日閲覧。
  10. ^ 政治の中心 京都に移る 幕末維新の群像(1)
  11. ^ a b 明治21年、織田完之訂『混同秘策』の寅賓居士(織田完之)による序近代デジタルライブラリー
  12. ^ 大正6年、東京市史稿 第4冊 第4篇近代デジタルライブラリー
  13. ^ 市制#1898年(明治31年)の三大都市特例廃止(「市制中追加法律」(明治31年法律第20号))
  14. ^ a b c ロム・インターナショナル(編) 2005, p. 132.
  15. ^ a b c d ロム・インターナショナル(編) 2005, p. 134.
  16. ^ 重要文化財建造物の総合防災対策検討会 「重要文化財建造物及びその周辺地域の総合防災対策のあり方」 (1-2 重要文化財建造物の周辺地域の防災対策の現状と課題) 平成21年4月
  17. ^ [1]
  18. ^ a b c d 津川康雄(1993)「京都の観光要素」、立命館地理学 第五号 17-29


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