高平・ルート協定
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太平洋方面ニ関スル日米交換公文 | |
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通称・略称 | 高平・ルート協定 |
署名 | 1908年11月30日 |
署名場所 | ワシントンD.C. |
締約国 | ![]() ![]() |
主な内容 | 極東地域をめぐる日米関係の調整 |
高平・ルート協定(たかひら・ルートきょうてい、英語: Root-Takahira Agreement)は、アメリカ合衆国国務長官エリフ・ルートと、日本の高平小五郎駐米大使の間で交渉が行われ、1908年(明治41年)11月30日に調印された、大日本帝国とアメリカ合衆国との間の協定のこと。日露戦争後の太平洋方面における日米両国の現状維持、清国における商工業の機会均等などを定めた。
「太平洋方面に関する日米交換公文」(たいへいようほうめんにかんするにちべいこうかんこうぶん)とも呼ばれる。
概要
協定は、1908年(明治41年)11月時点における領土の現状を公式に認識し、清の独立及び領土保全、自由貿易及び商業上の機会均等(すなわちジョン・ヘイによって提案されたような「門戸開放政策」)、アメリカによるハワイ王国併合とフィリピンに対する管理権の承認、満洲における日本の地位の承認から成っている。また暗黙のうちに、アメリカは日本の韓国併合と満洲南部の支配を承認し、そして日本はカリフォルニアへの移民の制限を黙諾した[1]。
背景
米西戦争によって、アメリカは東アジアにおける主要勢力となった。アメリカがハワイとフィリピンを得たことは、清国における積極的な経済政策と結び付いて、当時の日本政府にとって、ますます脅威として捉えられていた。他方でアメリカ政府は、日露戦争後の日本の近代的で強力な海軍を不安視していた。
協定はアメリカと日本の間における緊張の増大を避けるものとして評価された。しかしながら、1907年(明治40年)以降の日本のロシア帝国への再接近(日露協約)、および満洲への経済投資の増大によって、協定は中国での日本の覇権に対するアメリカの影響力の弱体化に帰着した[2]。
脚注
参考文献
- Gould, Lewis L. (1992). The Presidency of Theordore Roosevelt. University Press of Kansas. ISBN 0700605657
- Jansen, Marius B. (2000). The Making of Modern Japan. Belknap Press. ISBN 0674009916
- Jiang, Arnold Xiangje (1988). The United States and China. University of Chicago Press. ISBN 0226399478
関連項目
外部リンク
高平・ルート協定
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「高平・ルート協定」も参照 1908年10月18日、世界周航中のアメリカ艦隊が横浜に到着すると、民衆も提灯行列でこれを迎え、25日までの滞在中、日本では政府や民間主催の式典が数多く開かれ、メディアも大々的に報道して親米的な雰囲気が醸し出された。小村は、この機に対米関係の調整を図るべく、艦隊離日の25日、高平小五郎駐米大使に日米協商交渉を指示し、それを受け、高平は翌26日にルーズベルトに小村の協商案を提出した。大統領はこれに賛意を示し、11月7日より高平とルート国務長官により交渉が始まった。11月30日、日米両国は高平・ルート協定に調印した。条約の形をとらなかったのは、孤立主義の伝統の強いアメリカ上院の反対を恐れたアメリカ側の事情によるものであった。内容は、太平洋の現状維持と日米の領土に対する相互不可侵と通商の自由、清国の領土保全と門戸開放、機会均等であり、その文言だけをみると、桂・タフト協定や門戸開放原則を再び確認したにすぎないようにもみえるが、悪化しつつあったアメリカとの間で新たな協定を成立させた意義は大きかった、この頃、小村は外交官の堀口九萬一に対し、「今当分の間自分は英米との関係を穏やかにして行くということを基準にして、日本の外交をやるつもりだ」と語っている。小村はまた、渋沢栄一ら実業界の主要人物に協力を求め、日米実業団の相互訪問を実現させた。
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