高平ルート協定とは? わかりやすく解説

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高平・ルート協定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/23 12:27 UTC 版)

高平・ルート協定(たかひら・ルートきょうてい、英語: Root-Takahira Agreement)は、アメリカ合衆国国務長官エリフ・ルートと、日本高平小五郎駐米大使の間で交渉が行われ、1908年(明治41年)11月30日に調印された、大日本帝国アメリカ合衆国との間の協定のこと。日露戦争後の太平洋方面における日米両国の現状維持、清国における商工業の機会均等などを定めた。


  1. ^ Gould, The Presidency of Theodore Roosevelt, pp.268
  2. ^ Jiang, The United States and China, pp43


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高平・ルート協定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:17 UTC 版)

小村壽太郎」の記事における「高平・ルート協定」の解説

「高平・ルート協定」も参照 1908年10月18日世界周航中のアメリカ艦隊横浜到着すると、民衆提灯行列でこれを迎え25日までの滞在中、日本では政府民間主催式典数多く開かれメディア大々的報道して親米的雰囲気醸し出された。小村は、この機に対米関係調整を図るべく、艦隊離日25日高平小五郎駐米大使日米協商交渉指示し、それを受け、高平は翌26日ルーズベルト小村協商案を提出した大統領はこれに賛意示し11月7日より高平ルート国務長官により交渉始まった11月30日日米両国は高平・ルート協定に調印した条約の形をとらなかったのは、孤立主義伝統の強いアメリカ上院反対恐れたアメリカ側の事情よるものであった内容は、太平洋現状維持日米領土対す相互不可侵通商の自由清国領土保全門戸開放機会均等であり、その文言だけをみると、桂・タフト協定門戸開放原則を再び確認したにすぎないようにもみえるが、悪化しつつあったアメリカとの間で新たな協定成立させた意義大きかったこの頃小村外交官堀口九萬一対し、「今当分の間自分英米との関係を穏やかにして行くということ基準にして、日本の外交をやるつもりだ」と語っている。小村また、渋沢栄一実業界主要人物協力求め日米実業団相互訪問実現させた。

※この「高平・ルート協定」の解説は、「小村壽太郎」の解説の一部です。
「高平・ルート協定」を含む「小村壽太郎」の記事については、「小村壽太郎」の概要を参照ください。

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