軍首脳陣の評価と経緯
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「メッサーシュミット Me262」の記事における「軍首脳陣の評価と経緯」の解説
1943年に試作4号機が空軍首脳部に披露され、同年5月22日にアドルフ・ガーランド少将(当時)がMe 262 V4に試乗した。ガーランドは「天使が後押ししているようだ」と絶賛して、レシプロ機からの転換を言明した。さらにJumo 004B-0搭載の前輪式降着装置を油圧引込式に改良した試作6号機Me 262 V6が、7月25日に航空相ヘルマン・ゲーリング国家元帥とエアハルト・ミルヒ空軍元帥の前でデモンストレーション飛行を行った。 1943年11月26日、インスターブルク航空センターで地上展示されたMe 262 V6を見たアドルフ・ヒトラーは、ゲーリングに対し爆弾の搭載が可能かどうか質問した。ゲーリングは理論的に可能と回答した(回答は事前にメッサーシュミット博士に打診し用意された)。 ヒトラーは「電撃爆撃機が誕生した!」と宣言して、Me 262を高速爆撃機として生産するよう命じた。これはMe262の高高度での優位性を無視した指令であった。連合国軍の大規模爆撃がドイツ各地に被害を与え、ヒトラーはそれらへの報復と、ヨーロッパ大陸への侵攻に備え集結していた連合軍への攻撃を考えていた。当時、世界の戦闘機の主任務用途は空対空戦闘から地滑り的に戦術支援への転移を生じており、ヒトラーはこの動向を認識していたという考察も存在する。ゲーリングの回答は機種全体の開発計画推進を目的としたものだったが、戦闘機としての実戦投入を遅滞させる結果となった。 本機は、機首下面に1tまでの兵装を外部に搭載可能であったが、これにより、離陸距離が大幅に伸び、機体の重心位置が移動する問題があった。テストで500kg爆弾2個を機首下面の搭載して投下した際には、投下後に大きな機首上げモーメントが発生して、機首が約50°も上がり、投下するには後部の燃料タンクの燃料を使い切り重心を調整する必要があった。そのため爆撃任務はきわめて危険な任務となり、実戦では、その防止のため、250kg爆弾を2発しか搭載できず、爆撃照準器も装備していないため、爆撃機としては不満足なものであった。Me262の戦闘爆撃機型であるA-2a型は1944年8月末に北フランスにおいて作戦を開始し、その後アルデンヌ攻勢にも参戦したが、満足な戦果を上げていない、だが、戦闘爆撃機型は戦闘爆撃機部隊により敗戦まで細々と続けられた。 ガーランドはジェット機開発計画の初期段階である1942年春の会議ではMe 262を戦闘機とするか爆撃機とするか、一面的に開発を進めるべきではないと発言し、メッサーシュミット博士も同意見であったという。ガーランドはMe 262を本土防空用戦闘機と位置づけて編成を進めていた。ヒトラーは爆撃型の生産に支障がない範囲での戦闘機型のテストを許可したため、1943年12月にガーランドにより、ジェット戦闘機の戦術を開発する目的の実験部隊の編成を命令した。これにより、Me410を装備して、ドイツ本土を爆撃するB-17などの4発爆撃機の迎撃と夜間の英本土爆撃を任務としていた第51爆撃航空団(KG51)の第I飛行隊に実験部隊を設立して、その第3中隊の選抜パイロットが実験部隊で機種転換の訓練を受けることになり、実験部隊の指揮官にはボルフガング・シュンク少佐が任命され、実験部隊はシュンク実験隊またはE-51特別分遣隊と呼ばれた。1944年6月6日の連合軍のノルマンディー上陸作戦が始まった時には、実験部隊の訓練はまだ未完状態であり、12名のパイロットが各人4時間程度の訓練を受けて作戦可能とし、7月20日に9機がフランスのシャトーダンに進出したが、その後の連合軍の進攻が早く、エタンプ、クレー、ジュビンクールと基地を移動しながら撤退していき、8月にはベルギーのアティーシュープル、オランダのフォルケル、アイントホーフェンに基地を移動、9月にはドイツ本土に帰還するありさまで、ジュビンクールでセーヌ川沿いなどを目標に散発的な出撃を試みたものの、機密保持の理由で高度4000m以下での攻撃禁止と爆撃標準器なしでの攻撃のため効果はなかった。7月26日には、英空軍モスキートを撃墜してジェット戦闘機初戦果を記録しているが(実際はモスキートの側面扉が風圧で破壊され、飛んで行ったものをMe262のパイロットが誤認しただけであった)、8月28日には米軍の2機のP-47に追われて胴体着陸して初撃墜されている。その後、実験部隊は、ドイツ本土に帰還後に解隊されてKG51の第I飛行隊に併合されることになり、KG51の第I飛行隊と第II飛行隊はMe262に機種転換して、第I飛行隊はライネ、第II飛行隊はヘゼペに展開するとともにKG51の指令には中佐に進級したシュンクが就任して、9月下旬から、ベルギー・オランダにある英空軍基地・カナダ空軍基地や地上部隊に攻撃を開始している。 ヒトラーは戦闘機型のみ生産されていることをミルヒの報告から知って激怒し、1944年5月23日の会議で、Me262を戦闘機と呼ぶ事を禁じ、爆撃型のみ生産させた(ただし1944年6月の会議の記録では、それはジェット爆撃機であるAr 234の生産が軌道に乗るまでの暫定的なものとされている)。しかし、アメリカ陸軍航空隊や英空軍のドイツ本土爆撃がさらに激しくなり、石油施設が狙われて石油生産やストックが落ち込み、燃料不足が深刻になり、それにより、訓練部隊はもとより実戦部隊までもが出撃に制限が加わるようになりはじめ、さすがのヒトラーも1944年8月30日に20機に1機の割合で戦闘機型の生産を認める生産許可を出した。 戦闘機型のA-1a型は、1944年8月から空軍に引渡しが開始された。9月25日には、実験部隊を基本としたヴァルター・ノヴォトニー少佐を隊長としたMe262の実戦部隊「コマンド・ノヴォトニー」が編成され、9月29日には2個中隊に分かれ、ドイツ北西部のアハマーとヘゼベに展開して約30機が配備され、10月から作戦を開始した。同部隊はアメリカの第8航空軍爆撃隊の護衛戦闘機の迎撃を目的としており、爆撃隊の爆撃機の迎撃にはレシプロ戦闘機で対処する目論であった。しかし、エンジンの脆弱や燃料不足によるパイロットの訓練不足からの故障や事故が多く、本機の弱点である離陸時に攻撃されて撃墜されたりしたため、飛行場直衛のレシプロ戦闘機隊を配備するなどしたが、11月8日には、隊長であるノヴォトニー少佐が、同部隊を視察に訪れたガーランドの眼前で撃墜され戦死してしまう。その後、同部隊はレヒフェルトに後退させて訓練に戻ったが、戦果は撃墜22、不確実4に対して配備された30機中26機を失っている。 ノヴォトニー少佐の戦死の少し前の11月4日にヒトラーは全面的に戦闘機型の生産を認め、「コマンド・ノヴォトニー」部隊は第3戦闘航空団(JG3)と第54戦闘航空団(JG54)との間で再編され、初のMe262戦闘機航空団である第7戦闘航空団(JG7)の第III飛行隊となり、ブランデンブルクに基地を移動して作戦を開始しているが、戦死したノヴォトニー少佐を偲んで部隊名を「ノヴォトニー」としている。また、連合軍の制空権下では従来のレシプロ爆撃機では作戦行動はほぼ不可能となったため、解隊された爆撃航空団のパイロットをMe262の戦闘機隊のパイロットとして活用すべく、爆撃航空団の再編成が始まり、11月末に第54爆撃航空団(KG54)が第54爆撃航空団の戦闘機部隊(KG(J)54)となり、第I飛行隊が中部ドイツのビュルツブルグに近いベルシュタットを基地としている。その後も第6・27・55の3つの爆撃航空団をMe262の戦闘機隊に改変する予定であったが、1945年4月に第6爆撃航空団のみ作戦可能となっただけであった。 1944年末には、Me262を夜間戦闘機として使用する飛行隊が編成され、夜戦のエースであったクルト・ベルダー中尉を隊長としたベルダー隊、敵爆撃機を上空から爆撃する実験を担当するハルト・シュタンプ少佐を隊長としたシュタンプ隊、Me262にカメラを装備して偵察機として使用するヘルワルト・ブラウェク中尉を隊長としたブラウェク隊が編成された。ベルダー隊は、1945年2月末に第11夜間戦闘航空団(NJG11)の第10飛行隊に編入されたが、配備された機数は常時4機であり、単座戦闘機型の機首にFuG218ネプトゥーンレーダーを装備した実験機Me262V56と同じく機首にFuG218を装備した複座夜間戦闘機型のMe262B-1a/U1を装備して使用していたが、後者は7機の製造に留まったため、レーダーなしの単座昼間戦闘機型も併用され、ベルリン西方のブルク基地から首都ベルリンの防空戦に出撃して、出撃160回、約45機の撃墜を記録している。シュタンプ隊は1944年12月から時限信管を付けた爆弾を敵爆撃機編隊上空から20°の緩降下で接近して、その爆弾を投下後に炸裂させて敵爆撃機を撃墜する実験を開始したが、ツアイス社製の照準器を試用したり、時限信管を2秒と設定したりしたが、結論が出ない実験となり、1945年3月に隊は解隊されている。ブラウェク隊は近距離偵察グループのNAG6の第II飛行中隊に配属され、終戦まで任務に付いていたが、配備した機数が5-6機と少なく、本来の写真偵察型のMe262-1a/U3やA-4aはさらに少なく、単座昼間戦闘機型が多く配備され、これを使用した偵察任務が行われている。 空軍上層部との対立が激しくなったガーランドは後に戦闘機隊総監の地位を解任されたが、大戦末期の1945年1月にはMe262が優先的に配備された第44戦闘団(JV44)を編成してその司令官となり、メッサーシュミット社の故郷であるバイエルン州を中心に作戦を開始している。
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