芸能界への影響
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漫才ブーム前夜の1978年~1979年にかけ関西演芸界は沈滞ムードに包まれ、漫才界はどん底状態。演芸場の閉鎖にベテラン勢の訃報、人気コンビの解散や引退など暗いニュースが相次いだ。吉本はうめだ、なんば、京都に3花月劇場を経営していたが、関係者からは「もう閉めないとアカンのちゃうか?」という声も上がっていた。1978年に吉本に入社した大崎洋は「僕が吉本に入った頃は、やすきよさんの稼ぎで社員が食べられていた規模でした。漫才ブームの前で、劇場には『悪場所』の雰囲気がぷんぷん。滅び行くものを芸人さんと走りながら売っていくんやな、と最初に思いましたね」などと述べている。NSCの初代校長・冨井善則は「当時は芸人も経済的に厳しかったんとちゃいますか。ベテランも経済的に安定しないと弟子を取れない。取りたくなかったんじゃないかと思う」と話している。そこへ突如やってきたのが漫才ブームである。 このブームによって、それまで演芸場の延長線上でしかなかった漫才の客層が大きく変化し、若い女性を中心とするファンが増え、漫才師がアイドル的な人気を得るようになった。前述のようにタレントの中心位置が「歌手」から「笑い」に切り替わり、後のお笑い第三世代と共に、お笑い芸人に対してあったネガティブな印象(泥臭い、格好悪い、いくら頑張っても力関係では歌手の前座で露払い、太鼓持ちなど)を払拭するとともに、高額なギャラを取るお笑い芸人が続出するようになった。例えば大阪時代のB&Bの年収は、二人合わせて70万円足らずだったといわれるが、ブーム時には番組1回の出演料がそれぐらいあったといわれる。木村政雄は「それまでどちらかというと、大人の専有物の感があった"笑い"が、広く"若者"にも開放された。若者に広く認知されたことによって、それまで、ドラマや歌謡界に比べて、いくぶん低く評価されてきた"笑い"というもののステータスが上がった」と述べている。 「サンデー毎日」は1981年1月4日・11日合併号に掲載した“わッニュー漫才だ! ヤングを捉えるスピードとパワー“という記事で「1980年は"MANZAI元年"。万歳でも、漫才でもなく、まさにMANZAI! ナウで、シティー感覚あふれたニュー漫才が突如、爆発的ブームを呼んだ」と紹介している。代々木の山野ホールでの「お笑いスター誕生!!」の公開録画にぎっしり詰めた客は99%がヤング。人気漫才師の親衛隊が陣取り会場を盛り上げる。「○○サーン」と黄色い声が飛び、五色のテープが舞う。漫才師は、もはや芸人のイメージから遠く、ロックスターの世界へ飛翔した感じである。ニュー漫才とも、ニューウェーブともいう、従来の漫才とはパワーが違う。もはや漫才作家などというものは存在が許されない。とてもじゃないが、いまの感覚についていけないからだ。したがって台本は漫才師が自分たちで書く。これがやれなきゃ結局は伸びていけない。漫才作家は失業して、演芸評論家になった。澤田隆治は「ヤングパワーは時代を切り取った。古い作家には出来ないんですよ」と話した。小島貞二は「昔は台本作家が書き、演出してストーリー性を持たせるのが漫才だった。いまは対話のスピードが常識を外れている。若い人の台本は私にはとても書けませんね」と述べている。漫才ブーム以前の漫才は作家がいたが、漫才ブーム以降の漫才師のネタは自作が多く、澤田は「作家はいらん」と言った。漫才ブーム以降は芸は不要、キャラクターが売れる時代になったという見方がある。 ただし上記のような見解や風評を否定するような発言をする当事者も多くいた。例えば西川のりおは「つらかったのは、僕らがポッと出の新人だと思われたこと。ほとんどが十年以上のキャリアを持っていて、一度に機が熟したから、これだけ大きなブームが起こったんですわ」と述べており、高田文夫もひょうきん族について「動ける環境を作っておけばみんな期待以上の働きをしてくれた。みんな基礎が出来ていたからね。」と語っている[要出典]。 降って湧いた漫才ブームで、漫才師志望者が激増した。ミヤコ蝶々が1977年に開いた「蝶々新芸スクール・漫才部」は1979年まで、年一組か二組程度の入部希望者だったが、1980年に九組18人に増えた。また松竹芸能漫才教室には大阪工業大学の漫才研究会から小学生までどっと志望者が増え、1980年に十数組三十余人が通うようになった。志望者は圧倒的に18、9歳の若者で「有名になりたい、金を稼ぎたい、それには漫才が一番」と志望動機を話した。1980年末に漫才師は関西で60組、120人、東京に60数組140人いたといわれた。そのうち名前が売れているのは20組前後で、残りはくすぶり組であった。B&Bは1976年頃から一部では注目されていたが売れず。ザ・ぼんちも同じで、わずかに阪神・巨人と紳助・竜介は、くすぶり経験なしでブレイクした。 東京を基盤とする太田プロダクション、大阪を基盤とする吉本興業の所属タレントに多く漫才ブームで活躍したコンビが所属したため、これ以降テレビ業界での両事務所の影響力が拡大した。漫才ブーム以前1970年代後半の吉本興業は、社員数120人、年商40億円程度であったが、1995年には社員数180人、年商は190億円に拡大した。社員の数は五割増えただけなのに、売上げは五倍になったのである。その決定的なターニングポイントが漫才ブームであった。また、吉本興業はそれまで番組制作でタブーとされてきた「同一事務所所属タレントの表裏出演」を解禁し、現在に続く裏番組のルールを大きく切り替えることとなった。 また、木村政雄は「(漫才ブームは)それまで東京では、広く認知されているとは言えなかった関西弁に『市民権を与えた』と言ってもいいのかもしれません。なるほど、それ以前にも、東京の漫才界にてんや・わんやコンビの瀬戸わんやさんや、2代目桂小南さんのような関西出身者はおられたのですが、まだまだ希少な存在でしかありませんでした。それがテレビを通じて、B&Bや吉本勢の口から、日々耳に入ってくるようになったのですから、耐性ができても不思議ではありません。おかげでそれ以降、アウェーの東京でも関西弁の通りがずいぶんと良くなってきたような気がします」と述べている。 異常ともいえた「漫才ブーム」は、1、2年程度で衰えたが「お笑いブーム」そのものは、衰えるどころか、ますます勢いを増した。その中心になったのは上記の漫才ブームにのって出てきた顔ぶれである。「ブームが生んだタレント人気は、そのブームの衰退とともに消える」のが、それまでの常識であったが、彼らは漫才ブーム去ればさらりと漫才を捨て、簡単にコント芸人に転身した。見る側も、初手から彼らを漫才師と思っておらず、お笑いタレントとして見ていたから、その転身に別段の抵抗感もなかった。漫才コンビを単体で集めた『オレたちひょうきん族』が、お化け番組『8時だョ!全員集合』と裏番組で視聴率争いを始めた1982年には、当時のマスメディアも大きく取り上げた。また山城新伍の『アイ・アイゲーム』(フジ)なども人気を集め、この頃から権威に対するパロディが茶の間という公式の場で大手を振るという、テレビ界に娯楽番組の新しい流れが生まれた。 吉本興業の若手芸人養成所「NSC」は、漫才ブームが下火になった1982年であるが、開講の引き金になったのは漫才ブームである。NSCの初代校長・冨井善則は「漫才ブームが起こって開講を考えた。ブームで出た漫才師はセンスも違っていた。紳竜なんて、われわれの考えていた漫才を超えていた。そこで若いお客さんが欲している感覚の芸人を育てないとアカンと思った」と話している。 ダウンタウンの松本人志も漫才ブームに強く影響を受けた一人である。松本は漫才ブームについて、「リバイバルのカルチャーショックだった。小学校の頃思っていた、『人を笑いで楽しませるってことはこんなに素敵な仕事なんやなあ』ってことをあの漫才ブームのときに再認識させられた」と語っている。ブーム当時は紳助・竜介のファンで、「ザ・ぼんちやオール阪神・巨人は漫才がものすごく上手い。だけど(紳助・竜介は)そういう漫才の上手い下手じゃないところでトップを走っていた。感性やセンス、つまり発想で勝負していた。漫才ブーム以降、漫才の上手い下手ではなく、発想で勝負できるようにお笑いというものが変わった」と語っている。
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