芸能界への影響とは? わかりやすく解説

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芸能界への影響

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 06:35 UTC 版)

漫才ブーム」の記事における「芸能界への影響」の解説

漫才ブーム前夜1978年1979年にかけ関西演芸界は沈滞ムード包まれ漫才界はどん底状態。演芸場閉鎖ベテラン勢の訃報人気コンビ解散引退など暗いニュース相次いだ吉本はうめだ、なんば、京都に3花月劇場経営していたが、関係者からは「もう閉めないアカンのちゃうか?」という声も上がっていた。1978年吉本入社した大崎洋は「僕が吉本入った頃は、やすきよさんの稼ぎ社員食べられていた規模でした。漫才ブームの前で、劇場には『悪場所』の雰囲気ぷんぷん滅び行くものを芸人さんと走りながら売っていくんやな、と最初に思いましたね」などと述べている。NSC初代校長・冨井善則は「当時芸人経済的に厳しかったんとちゃいますか。ベテラン経済的に安定しない弟子取れない取りたくなかったんじゃないかと思う」と話している。そこへ突如やってきたのが漫才ブームである。 このブームによって、それまで演芸場延長線上でしかなかった漫才客層大きく変化し若い女性中心とするファン増え漫才師アイドル的な人気を得るようになった前述のようにタレント中心位置が「歌手」から「笑い」に切り替わり、後のお笑い第三世代と共にお笑い芸人に対してあったネガティブ印象泥臭い格好悪い、いくら頑張って力関係では歌手前座露払い太鼓持ちなど)を払拭するとともに高額なギャラを取るお笑い芸人続出するようになった例え大阪時代B&B年収は、二人合わせて70万円足らずだったといわれるが、ブーム時には番組1回出演料それぐらいあったといわれる木村政雄は「それまでどちらかというと大人専有物の感があった"笑い"が、広く"若者"にも開放された。若者広く認知されたことによって、それまでドラマ歌謡界比べていくぶん低く評価されてきた"笑い"というもののステータス上がった」と述べている。 「サンデー毎日」は1981年1月4日11日合併号に掲載した“わッニュー漫才だ! ヤング捉えるスピードパワー“という記事で「1980年は"MANZAI元年"。でも、漫才でもなく、まさにMANZAI! ナウで、シティー感覚あふれたニュー漫才突如爆発的ブーム呼んだ」と紹介している。代々木山野ホールでの「お笑いスター誕生!!」の公開録画にぎっしり詰めた客は99%がヤング人気漫才師親衛隊陣取り会場盛り上げる。「○○サーン」と黄色い声飛び五色テープが舞う。漫才師は、もはや芸人イメージから遠くロックスター世界へ飛翔し感じである。ニュー漫才とも、ニューウェーブともいう、従来漫才とはパワーが違う。もはや漫才作家などというものは存在許されないとてもじゃないが、いまの感覚ついていけないからだ。したがって台本漫才師自分たちで書く。これがやれなきゃ結局は伸びていけない。漫才作家失業して演芸評論家になった澤田隆治は「ヤングパワーは時代切り取った。古い作家には出来ないんですよ」と話した小島貞二は「昔は台本作家書き演出しストーリー性を持たせるのが漫才だった。いまは対話スピード常識外れている。若い人台本は私にはとても書けませんね」と述べている。漫才ブーム以前漫才作家がいたが、漫才ブーム以降漫才師ネタ自作多く澤田は「作家はいらんと言った漫才ブーム以降は芸は不要キャラクター売れ時代になったという見方がある。 ただし上記のような見解風評否定するような発言をする当事者多くいた。例え西川のりおは「つらかったのは、僕らポッと出新人だと思われたこと。ほとんどが十年上のキャリア持っていて、一度に機が熟したから、これだけ大きなブーム起こったんですわ」と述べており、高田文夫ひょうきん族について「動け環境作っておけばみんな期待上の働きをしてくれた。みんな基礎出来ていたからね。」と語っている[要出典]。 降って湧いた漫才ブームで、漫才師志望者が激増したミヤコ蝶々1977年開いた蝶々新芸スクール漫才部」は1979年まで、年一組か二組程度入部希望者だったが、1980年に九組18人に増えた。また松竹芸能漫才教室には大阪工業大学漫才研究会から小学生までどっと志望者が増え1980年十数三十余人が通うようになった志望者は圧倒的に189歳若者で「有名になりたい、金を稼ぎたい、それには漫才が一番」と志望動機話した1980年末に漫才師関西60組、120人、東京60数組140人いたといわれた。そのうち名前が売れているのは20前後で、残りくすぶりであったB&B1976年頃から一部では注目されていたが売れずザ・ぼんちも同じで、わずかに阪神・巨人紳助・竜介は、くすぶり経験なしでブレイクした。 東京基盤とする太田プロダクション大阪基盤とする吉本興業所属タレント多く漫才ブーム活躍したコンビ所属したため、これ以降テレビ業界での両事務所影響力拡大した漫才ブーム以前1970年代後半吉本興業は、社員120人、年商40億円程度であったが、1995年には社員数180人、年商190億円に拡大した社員の数は五割増えただけなのに、売上げは五倍になったのである。その決定的なターニングポイント漫才ブームであったまた、吉本興業それまで番組制作タブーとされてきた「同一事務所所属タレント表裏出演」を解禁し、現在に続く裏番組ルール大きく切り替えることとなったまた、木村政雄は「(漫才ブームは)それまで東京では、広く認知されているとは言えなかった関西弁に『市民権与えたと言ってもいいのかもしれません。なるほど、それ以前にも、東京漫才界にてんや・わんやコンビ瀬戸わんやさんや、2代目桂小南さんのような関西出身者はおられたのですが、まだまだ希少な存在でしかありませんでした。それがテレビ通じてB&B吉本勢の口から、日々耳に入ってくるようになったのですから、耐性ができても不思議ではありません。おかげでそれ以降アウェー東京でも関西弁通りがずいぶんと良くなってきたようながします」と述べている。 異常ともいえた「漫才ブーム」は、1、2程度衰えたが「お笑いブームそのものは、衰えどころか、ますます勢い増した。その中心になったのは上記漫才ブームにのって出てきた顔ぶれである。「ブーム生んだタレント人気は、そのブーム衰退とともに消える」のが、それまで常識であったが、彼らは漫才ブーム去ればさらりと漫才捨て簡単にコント芸人転身した。見る側も、初手から彼らを漫才師思っておらず、お笑いタレントとして見ていたから、その転身別段抵抗感もなかった。漫才コンビ単体集めた『オレたちひょうきん族』が、お化け番組『8時だョ!全員集合』裏番組視聴率争い始めた1982年には、当時マスメディア大きく取り上げた。また山城新伍の『アイ・アイゲーム』(フジ)なども人気集めこの頃から権威対すパロディ茶の間という公式の場で大手を振るという、テレビ界に娯楽番組新し流れ生まれた吉本興業若手芸人養成所NSC」は、漫才ブーム下火になった1982年であるが、開講引き金になったのは漫才ブームである。NSC初代校長・冨井善則は「漫才ブーム起こって開講考えたブーム出た漫才師センス違っていた。紳竜なんて、われわれの考えていた漫才超えていた。そこで若いお客さん欲している感覚の芸人育てないアカン思った」と話している。 ダウンタウン松本人志漫才ブーム強く影響受けた一人である。松本漫才ブームについて、「リバイバルカルチャーショックだった。小学校の頃思っていた、『人を笑い楽しませるってことはこんなに素敵な仕事なんやなあ』ってことをあの漫才ブームのときに再認識させられた」と語っている。ブーム当時紳助・竜介ファンで、「ザ・ぼんちオール阪神・巨人漫才ものすごく上手い。だけど(紳助・竜介は)そういう漫才の上手い下手じゃないところでトップ走っていた。感性センス、つまり発想勝負していた。漫才ブーム以降漫才の上手い下手ではなく発想勝負できるようにお笑いというものが変わった」と語っている。

※この「芸能界への影響」の解説は、「漫才ブーム」の解説の一部です。
「芸能界への影響」を含む「漫才ブーム」の記事については、「漫才ブーム」の概要を参照ください。

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