第二回
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「葉鍵板最萌トーナメント」の記事における「第二回」の解説
開催期間 2005年11月26日〜2006年9月26日 前回から4年経った2005年11月26日から開催された。前回の参加者の間で、オリンピックのように4年後に開催しようといった意見が多かった事、また終了後に発表された作品にも参加する機会を設けたいという意見で開催が決まった。しかし、議論の中には反対の声や、前回の運営メンバーが全く参加しない状況での開催を不安視する意見もあった。 本選参加キャラは前回の倍の256人となったが、前回と同様の1日1戦方式で行ったため日程も倍になり、一回戦を終了させるだけで前回とほぼ同じ期間を費やした。 1回戦のみ、1日2試合にする案も出されたが、投票の結果否決された。 お婆さんキャラや人工知能搭載の車キャラや、10年近く前の作品を含む新旧の作品からキャラなど前回に比べて多様なキャラがエントリーされている。 主な出来事2005年11月26日 - 予選開始(計116名 4ブロックから4名ずつ勝ち上がり)。 12月17日 - 本選開始(計256名 8ブロックから1名ずつ勝ち上がり)。 2006年3月12日 - コード発行に関するトラブルでコード発行所を変更する事態となった。 5月16日 - 投票結果の審議を巡りその提案方法や審議手段、結果に誤りが複数見つかり運営と参加者の間で意見を交わした結果、2日後に審議自体がなかった事として場を収めるという事態となった。 7月21日 - 審議により勝敗を覆したがその投票を行った参加者により「あれは外部の人間によびかけて集中的に投票したものだ」という抗議を受け、審議に参加した複数の集計人が辞任する事となった。 インターネットによる匿名投票という構造上、多重投票に対する懸念は開催当初から運営陣や参加者から提起されていたが、対応する手段が無いまま最後まで多重の有無に関する論争を繰り返すこととなった。 9月14日 - 決勝トーナメント開始。 決勝へエントリーしたキャラは長谷部彩(『こみっくパーティー』)、小牧愛佳(『ToHeart2』)、長森瑞佳、上月澪(2名とも『ONE〜輝く季節へ〜』)、月宮あゆ、川澄舞(2名とも『Kanon』)、神尾観鈴(『AIR』)、仁科りえ(『CLANNAD』)の8名。 9月23日 - 決勝戦が行われ、10ヶ月におよぶイベントは終了した。 優勝:小牧愛佳、準優勝:神尾観鈴、3位:月宮あゆ、仁科りえ
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第二回
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「葉鍵板最萌トーナメント」の記事における「第二回」の解説
開催期間 2005年12月17日〜2006年9月7日 第2回最萌トーナメントと並行して行われる。優勝 ベナウィ(『うたわれるもの』) 準優勝 オボロ(『うたわれるもの』) 3位 芳野祐介(『CLANNAD』) 4位 坂上鷹文(『CLANNAD』)
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第二回
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この回以降の審査は、朝鮮文人協会によって行われることとなった。 受賞者 文学 – 李泰俊 会話 – 高義東 舞踊 – 韓成俊
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第二回
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トラブルが続いた結果、最終的に長編短編合わせて32作品が上映された。レッドカーペットは起雲閣で行われたが、実行委員会の準備不足を露呈する事になった。準備不足は上映にも反映され、映画祭は数々の問題点を残して閉幕した。
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第二回
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当初は一回限りの大会であったが、景色や郷土料理も含め概ね好評であり、その成功を受けて、2006年4月23日に「志摩ロードパーティハーフマラソン2006」として、実質的に二回目の大会が行われている。名前のとおり、最も長いコースをハーフマラソンとした上に、10km、5km、3kmのマラソンおよび9kmのウォーキングのコースを設け、幅広い参加者の獲得を目指した。この回から会場を志摩スペイン村を中心とする磯部町内とした。 ゲストに千葉真子、金哲彦らが招かれた。この回から近畿日本鉄道が大会実行委員会に参画し、約4,300人が参加した。
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第二回
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2000年7月31日から8月1日にラフォーレ修善寺で開催。 共催は、 社団法人トロン協会、 組込みソフトウェア技術研究会(CEST)、 組込み機器業界交流会Emblem
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第二回(607年)
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第二回は、『日本書紀』に記載されており、607年(推古15年)に小野妹子が大唐国に国書を持って派遣されたと記されている。 日本の王から煬帝に宛てた国書が、『隋書』「東夷傳俀國傳」に「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや、云々)と書き出されていた。これを見た隋帝は立腹し、外交担当官である鴻臚卿(こうろけい)に「蕃夷の書に無礼有らば、復た以て聞する勿かれ」(無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな)と命じたという。 なお、煬帝が立腹したのは、天子は中華思想では1人で、それなのに辺境の地の首長が「天子」を名乗ったことに対してであり、「日出処」「日没処」との記述に対してではない。「日出處」「日沒處」は『摩訶般若波羅蜜多経』の注釈書『大智度論』に「日出処是東方 日没処是西方」とあるなど、単に東西の方角を表す仏教用語である。冒頭に、「海の西の菩薩天子が仏教を興隆させているので学ばせてほしい」と国書を提出していて、仏教を崇拝し菩薩戒を受けた文帝への仏教重視での対等の扱いを目指した表現で、譲位された煬帝相手のものではなかった。 小野妹子(中国名:蘇因高)は、その後返書を持たされて返されている。煬帝の勅使として裴世清が派遣されるという厚遇で一緒に帰国した妹子は、返書を百済に盗まれて無くしてしまったと言明している。しかしこれについて、煬帝からの返書は倭国を臣下扱いする物だったのでこれを見せて怒りを買う事を恐れた妹子が、返書を破棄してしまったのではないかとも推測されている。 裴世清が持ってきたとされる書が『日本書紀』にある。 「皇帝、倭皇に問う。朕は、天命を受けて、天下を統治し、みずからの徳をひろめて、すべてのものに及ぼしたいと思っている。人びとを愛育したというこころに、遠い近いの区別はない。倭皇は海のかなたにいて、よく人民を治め、国内は安楽で、風俗はおだやかだということを知った。こころばえを至誠に、遠く朝献してきたねんごろなこころを、朕はうれしく思う。」 「皇帝問倭皇 使人長吏大禮 蘇因高等至具懷 朕欽承寶命 臨養區宇 思弘德化 覃被含靈 愛育之情 無隔遐邇 知皇介居海表 撫寧民庶 境內安樂 風俗融合 深氣至誠 遠脩朝貢 丹款之美 朕有嘉焉 稍暄 比如常也 故遣鴻臚寺掌客裴世清等 旨宣往意 并送物如別」『日本書紀』 これは皇帝が蕃夷の首長に対し下す形式の国書であった。しかし、なぜか倭皇となっており、「倭皇」を後の日本書記編纂での改竄とする見解がある。『日本書紀』によるこれに対する返書の書き出しは「東の天皇が敬(つつし)みて西の皇帝に白す」(「東天皇敬白西皇帝」『日本書紀』)とあり、前回とは違う身分が上の貴人に差し出すへりくだった形式となっていて外交姿勢を改めたことになる。「東天皇」は後の編纂時に改定されたもので「大王」か「天王」だったという説と、そのまま天皇号の始まりとする両説がある。 なお、裴世清が持参した返書は「国書」であり、小野妹子が持たされた返書は「訓令書」ではないかと考えられる。小野妹子が「返書を掠取される」という大失態を犯したにもかかわらず、一時は流刑に処されるも直後に恩赦されて大徳(冠位十二階の最上位)に昇進し再度遣隋使に任命された事、また返書を掠取した百済に対して日本が何ら行動を起こしていないという史実に鑑みれば、聖徳太子、推古天皇など倭国中枢と合意した上で、「掠取されたことにした」という事も推測される。 だが、姿勢に変化はあるものの、冊封は受けないとする倭国側の姿勢は貫かれ、隋は高句麗との緊張関係の中、冊封を巡る朝鮮三国への厳しい態度と違い、高句麗の背後に位置する倭国を重視して、冊封なき朝貢を受忍したと思われる。
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