第二合衆国銀行の挫折と妥協
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「1819年恐慌」の記事における「第二合衆国銀行の挫折と妥協」の解説
第二合衆国銀行は、アメリカ合衆国財務省の金融機関として1817年1月に運営を始めた。2月20日以降、その認証によって求められる法定通貨で政府歳入を全て受け入れ始めることになっていた。 アメリカ合衆国は輸入が輸出を上回ったために正金が不足し、ペルーとメキシコの金と銀の資源も正金保有高を補充できなかった。その不足のために、銀行の法人化条件は貨幣と国債の組み合わせで、民間引受人が投資するようになった。さらに彼等は国債そのものを担保に銀行株の購入を認められた。第二合衆国銀行はその憲章のガイドラインの下で、その開業までに総額2,800万米ドルの正金獲得が予定されていたが、営業開始の時点で200万米ドル分しか集められず、1817年と1818年にロンドンの金融市場から不当に高い値段で正金を購入することを強いられ、銀行信用の重荷になった。 2月20日の兌換再開期日が近付くと、民間銀行(すなわち州認証銀行)は中央銀行の規制力に従うことを嫌がって、合衆国銀行との協力を保留し、非兌換紙幣の発行から得られる大きな利益を消した。1817年2月1日、ペンシルベニア州、ニューヨーク州、メリーランド州、バージニア州の銀行家協会が、新しい財務長官ウィリアム・H・クロウフォードおよび第二合衆国銀行総裁のウィリアム・ジョーンズと会合し、民間銀行に対する債権者としての役割を行使するために中央銀行の能力を下げる妥協を行った。 第二合衆国銀行の支配人はクロウフォード長官の許可を得て、7月1日まで州立銀行が保有する公的資金を集めることをしないと約束した。さらに銀行の与信枠を600万米ドルの割引で大幅に拡大することに合意し、その後に州の機関から公的負債を集めることとした。事実上中央銀行は民間銀行をその債権者に変え、合衆国銀行が規制機能を開始する数か月前に、その正金保有量から引き出すことを可能にしていた。これら「不吉な条件」の下で銀行は運営を開始し、その成功は既に危険な状態にあった。
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