特色・評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 04:53 UTC 版)
修羅能(二番目物)の一つである。戦勝した武将を主人公とすることから、『田村』、『箙』とともに勝修羅と呼ばれ、江戸時代は武士に好まれた。ただし、そのような分類は、この曲の主題の理解に支障になっているとの指摘もある。 完成された複式夢幻能の形式をとる。『平家物語』巻11を踏まえ、あるいは要約・脚色しながら、前場・後場それぞれに屋島の戦いの合戦話が配されている。前場では三保谷と景清の錏引きの剛勇譚、嗣信と菊王の最期を組み合わせて、源平武者を対比しながら、合戦の無常性を漂わせて後場につなげている。後場では弓流しの話を掛け合いで語り、佳名(名誉)にこだわる義経の心情を描いた後、「生き死にの海山」で妄執に苦しむ義経を描いている。これらが源氏と平家、海と陸、昔と今、閻浮(現世)と修羅といった対置構造の中で語られ、スケールの大きい作品となっている。特に、義経が修羅道の苦患を現し、最高潮に達すると春の夜が明けて夢が覚めるキリの部分は、謡曲文中屈指の名文とされており、それに合わせた息もつかせない型は、能の見どころとなっている。 義経が成仏できずに現世にさまよっている執心の本質は、「佳名はいまだ半ばならず」という後場の詞章に表現されていると指摘されている。梅原猛は、義経にとっての最大の武勲である一ノ谷の戦いや壇ノ浦の戦いよりも、屋島の戦いで弱い弓を拾うために危険を冒した義経を高く評価している点、末尾で、平家を滅ぼした壇ノ浦の戦いも夢のまた夢であったと描いている点に、戦争を厭う世阿弥の価値観が表れているとする。
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特色・評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/23 15:25 UTC 版)
世阿弥による「そばへ行きたるところあり」という評価は、趣向に凝っているということと思われる。すなわち、構成面においては、山姥の曲舞を舞って評判をとった百ま山姥の前に、本物の山姥が現れるという入れ子構造がとられている。また、妄執の権化である山姥が、「煩悩即菩提」という禅思想を説きながら、しかも最後まで妄執にとらわれ続けるという逆説的な物語となっており、そのこと自体が「煩悩即菩提」という主題を体現している。晩年の世阿弥が、禅の思想に親しんでいたことを示している。 本作品に現れる山姥は、人を喰う恐ろしい鬼女ではなく、むしろ仙女のような存在であり、自然そのものの象徴、あるいは人間の象徴とも考えられる。 一曲を通じて、優美な感じもある一方で鬼気がみなぎっており、「力と速度の能」と言われるとおり、ダイナミックで迫力に満ちた作品である。
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特色・評価
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源融(822年 - 895年)は嵯峨天皇の十二男で、臣籍降下して従一位左大臣にまで登った実在の人物。六条に築いた邸宅・河原院に塩竈の光景を写して風流三昧に耽った、との逸話は、古く『古今和歌集』所載の紀貫之の歌(君まさで煙絶えにし塩釜のうらさびしくも見えわたるかな)や、『伊勢物語』81段などに伝えられている。 「融」ではこうした説話に基づき、融は気品ある風流な貴人として描かれている。そんな融の花やかな舞と、荒廃した河原院跡の哀しさ、という対照的なモチーフを美しい叙景描写でつないだ巧みな構成、そして詞章は、数ある能の中でも優れた一曲との評価が高い。 大正 - 昭和期の名手として知られた能楽師・櫻間弓川も本曲を好きな能の1つとして挙げる。著書の中で弓川は、少ない登場人物など簡素な構成でありながら、「喜怒哀楽の複雑な感情」を深く表現した、「能本来の精神を最もよく表現してゐる能」と賞賛している。 室町期から盛んに上演されており、現在もシテ方5流のすべてで現行曲として扱われる。また、末尾の「この光陰に誘はれて、月の都に、入り給ふよそほひ、あら名残惜しの面影や」の詞章から、故人追善のための演能でしばしば舞われる。
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特色・評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 10:27 UTC 版)
犬塚清和は、仮説実験授業研究会を「科学教育を科学にするという立場をとる学問的な「学派」である」と解釈した。北海道大学名誉教授の高村泰雄は、数学教育協議会(数教協)と並んで仮説実験授業研究会の取り組みに学んだといい、「「すべての子どもに現代科学の基本的な概念や法則をやさしく教える」ことを標傍し、教育内容の構成や授業の組織化にも目覚ましい科学的な成果を挙げて」いると評価した。 会則には「会としての決議は一切行わず、その行動、意思表示などは会員各自の──あるいは同じ意見のもの同士の他の行動組織の──自由に任せるものとする。」とある。板倉聖宣は、犬塚がガリ版の『仮説』を出版したような会員の自由な活動を評価して、「中央の委員会や事務局がなにもしなくても、大会はもとより各種各様の全国機関紙が出せるようになった」、「この『仮説』こそが、仮説実験授業研究会の本当の機関紙という性質をもっている」、「こういう研究・組織のあり方自体が仮説実験授業的だと思う」と述べている。 なお、「政治上の意見については仮説実験授業研究会は何ら意思表示をしない」というスタンスで、運動団体ではないという立場であった。会員から不満が出ながらも、入試や学習指導要領などに意見を出すような活動はしなかった。また、朝日新聞社のジャーナリスト・高橋真理子によると、日教組と文部省が対立する時代に、仮説実験授業研究会は組合系と文部省系のどちらにも与しなかったという。 会則では「仮説実験授業を実施してその記録など研究資料・論文を本会に提出したもの、および仮説実験授業の授業書の作成に従事するなど、仮説実験授業の研究に寄与したものは、本会の承認を得て会員となることができる。」と規定され、板倉は安易に会員を増やさないという方針をとっていた。また、当初は授業書の購入や発表にも制限をかけていた。
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