特筆すべき事故
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「タラデガ・スーパースピードウェイ」の記事における「特筆すべき事故」の解説
1987年のウインストン500(英語版) 1987年のNASCARウインストン・カップシリーズ(英語版)は、ビル・エリオットがフォード・サンダーバードを駆り、2月の1987年のデイトナ500(英語版)で210.364 mph(338.548 km/h)の史上最速レコードを樹立しており、このレースでも4月30日の予選で212.809 mph (342.483 km/h)を叩き出し、マッスルカー全盛期の60年代末のエアロ・ウォリアー(英語版)以降では最速の時代が到来していた。この数日後の5月8日に1987年のインディ500(英語版)予選(ポール・デー)にて、ボビー・レイホール(ローラ T87/00、コスワースDFXターボ)が記録したインディカーの予選最高速度が216.609 mph (348.598 km/h)である事から、当時のストックカーがいかに速かったかが窺い知れる。ビルの所属するメリング・レーシング(英語版)は「世界最速のレーシングカー」として"212.809"の数字をメディアに大々的に喧伝していたが、チーム関係者の間では「余りにも速くなりすぎているのではないか?」との懸念が漂い始めており、特にシボレー・モンテカルロ(英語版)SSを採用しているチームでは、ドライバーから「第3ターンで後輪が舗装から浮き上がるような感覚がある。」という報告がされている状況であった。シボレーユーザーのチーム・オーナーの一人、ジュニア・ジョンソン(英語版)はオフィシャルに対して「タラデガの速度域は人の能力の限界を超えつつある。何か対策をすべきではないか?」と進言したが、NASCARは当時全米で繰り広げられていた"212.809"の報道に浮かれ、何も行われる事は無かった。 事故は5月3日の本戦22周目で発生した。50歳のベテランドライバー、ボビー・アリソンのNo.22ビュイック・ルセーバー(英語版)の右リアタイヤが第3ターン手前で突然バースト、車はスピンしながら後部から浮き上がり、フィニッシュライン付近で金網製のキャッチフェンスに引っ掛かるように激突した。幸いにもキャッチフェンスには太さ4インチのワイヤーがバックアップとして張られており、このワイヤーがゴム紐のように伸びて3400ポンド(約1.5トン)の車体が時速200マイル(320 km/h)以上で突っ込んでくる衝撃を受け止めた事により、100フィート(約30 m)に渡って金網が破断したにも関わらず、車体が観客席に飛び込む最悪の事態だけは回避できた。しかし、事故により最前列に座っていた観客5名が飛散した破片で負傷した。3人はトラック内のメディカルセンターでの治療のみで済む軽傷であったが、2人は入院を要する重傷で、うち女性一人は眼球を負傷し失明した。幸運にも死者は一人も出なかったが、直前まで過熱していた"212.809"の数字が一人歩きする形となり、NASCARは一転してメディアから激しい非難を浴びる事となった。 当時現場に居合わせていたESPNの記者エド・ヒントン (スポーツ記者)(英語版)の取材によると、事故を大惨事から防いだ2本のワイヤーが誰の提案で設置されたものかはトラックの安全管理者を含めて誰も把握していなかったとしており(ビル・フランス・ジュニア(英語版)の提案との説もあったが、2007年に彼が死亡していた事により確認は出来なかった)、このワイヤーがもしも設置されていなければ、ボビーの事故は1955年のル・マン24時間レースの事故を上回る、NASCARの存続すら危ぶまれる史上最悪の事故となった事は避けられなかっただろうと結論づけている。事故直後は後輪がバーストした理由が不明であり、観客が投げ込んだビール瓶を踏んだ為とも噂されたり、オフィシャルも「350 km/hの超高速域にタイヤが耐えられない事」をリストリクタープレートの導入の直接の動機付けとしていたが、その後の調査によりバーストの原因はボビー車が事故の寸前にエンジンブローを起こしており、自身のエンジンから飛散した破片を後輪が踏み付けたものによる事が判明した。 当時26歳のルーキードライバー、デイビー・アリソン(英語版)はNo.28フォードの車中から父ボビーが遭遇した恐ろしいクラッシュを目撃したが、父がオフィシャルに救出されるのを見届けると一念奮起してこのレースで勝利を飾った。ボビーは後年事故を振り返り「自身が無傷で済んだ事と、観客が過剰に傷つけられなかった事を主に感謝している。あれは誰にも避けられない事故だった。」と述べている。 しかしボビーにはその後も不幸が続き、この年のデイトナ第2戦であるペプシ・ファイアークラッカー400(現コークゼロ400(英語版))でこそビュイックにシーズン唯一の勝利をもたらしたが、翌1988年シーズンのポコノ・ミラー・ハイライフ500(現アクサルタ"ウィー・ペイント・ウィナーズ"400(英語版))ではジョコー・マギーアコモ(英語版)に自身の左側面から突っ込まれるTボーン・クラッシュを起こしてレーサーからの引退に追い込まれており、1992年には息子のクリフォード・アリソン(英語版)がブッシュ・シリーズのミシガン・デトロイトガスケット200(現メナーズ250(英語版))の練習走行中の事故で死亡。1993年にはクリフォードの兄デイビーも友人であるデビッド・ボンネット(ニール・ボンネット(英語版)の息子)のブッシュシリーズデビュー戦(フラム・フィルター500K(英語版))を観戦する為にヘリコプターでタラデガに乗り付けた際、トラックのインフィールドに墜落する航空事故を起こして死亡(助手席に乗り合わせたチーフ・メカニックのレッド・ファーマー(英語版)は生還)、ボビー自身も1996年に妻ジュディと離婚を経験するという受難を受けている。ボビーは2000年にジュディと再婚し、2015年に死別するまで大過なく過ごしているが、1993年のデイビーの事故死に関わったニール・ボンネットは直後に行われたタラデガのダイハード500(現ヒルマンズ500(英語版))にて、87年のボビーと同じようなエアボーン・クラッシュを起こし(この事故がルーフフラップ導入の契機となっている)、翌1994年のデイトナ500(英語版)で遂に事故死してしまった。ボビーにまつわる一連の不幸は、アメリカではタラデガの呪いと呼ばれるジンクスの一つとして語られる事も多い。 2009年のアーロンズ499(英語版) アーロンズ(英語版)499と銘打たれたこの年の春期レースでは、2度のビッグ・ワンに加え観客を巻き込む事故が発生した。 7周目:スタート時点でポイントリーダーであったジェフ・ゴードンがマット・ケンゼスのテールスライドを受け止めてしまいウォールへと直行。これにマーク・マーティン(英語版)ら後続が一気に巻き込まれ14台がクラッシュ。そのうち4台がリタイアし、4台は復帰出来たものの修復に長時間を取られ、優勝争いから脱落した。 179周目:デニー・ハムリンがポールポジションスタートのファン・パブロ・モントーヤを突く形でモントーヤがスピン、これにロビー・ゴードン(英語版)が体当たりされウォールに直行、他にも避けきれなかったジミー・ジョンソンもウォールにヒットし9台がクラッシュ、うち7台がリタイアした。 最終周:カール・エドワーズがファイナルラップのホームストレッチ上コーナーで、インラインを走っていたブラッド・ケセロウスキーをブロックする形で接触、バランスを崩したエドワーズはスピンし浮上した。さらに後方を走っていたライアン・ニューマンを踏みつけながらキャッチフェンスへと突っ込み、飛んできた破片に当たり観客6人が負傷した。 これらの事故を受け、同年秋開催よりキャッチフェンスをかさ上げし、車両側ではリストリクタープレートを小径化、さらにターン中のバンプドラフト(先行車へのプッシュ)を禁止する処置を行った。しかし、この年の秋期レースである2009年のアンプ・エナジー500(英語版)では、183周目に前の車に詰まったライアン・ニューマンがスピンから後ろを向き浮上、車両は上下逆の状態で停止した。この事故でロールケージが潰れ、通常の方法で車外へ出られなくなったため、ロールケージを切断して救出された。 2012年のグッドサム・ロードサイド・アシスタンス500(英語版) 最終周:先頭を走行していたトニー・スチュワートが、ラインを左に変更しようとした際マイケル・ウォルトリップ(英語版)と接触、さらにバランスを崩したウォルトリップが直後のケーシー・メアーズ(英語版)と接触し、3台ともスピン。これに4ワイドを形成していた後続が次々と巻き込まれ、25台がクラッシュした。
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特筆すべき事故
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「AS 532 (航空機)」の記事における「特筆すべき事故」の解説
2012年7月25日 - イタリアとの国境に近いフランスのアルプ=ド=オート=プロヴァンス県にあるヴェルドン峡谷(英語版)の切り立った崖で、試験飛行中のクーガーが墜落した。6人が死亡し、その全員がユーロコプターの社員だった。目撃者によれば、ヘリコプターは送電線に接触したという。このヘリコプターは、アルバニア陸軍に納入される予定だった。 2017年5月31日 - トルコ南東アナトリア地方シュルナク県の山岳地域で、トルコ軍のクーガーが離陸から3分後に高圧線に引っかかり墜落し、軍警察第23国境師団司令部司令官のアイドアン・アイドゥン少将を含む将兵13人が殉職した。アイドゥン少将の指揮のもと、現場では43日間分離主義テロ組織に大打撃を与える数多くの包括的なテロ掃討作戦が実行されていた。
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