牛鍋・すき焼き
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牛肉のすき焼きを早い時期に食べた資料が今も残っている。嘉永7年(1854年)正月5日に長崎にて箕作院甫が牛肉を松前の犁ですき焼きにして食べたという『西征日記』の記録である。また、長崎では牛、豚、鶏が既に食べられていたと記述があり、鋤焼屋が安政元年(1854年)までは差迄繁盛しなかったが、安政5年6年(1858年1859年)頃からぼちぼち開店する者が増したとある。 福沢諭吉は『福翁自伝』の中で適塾塾頭だった安政4年(1857年)ごろ、大阪に牛鍋(うしなべ)を食べられる牛肉屋が二軒あったと回想している。 幕末の安政6年(1859年)に横浜が開港された後、外国人居留地に暮らす日本国外の人々から肉食文化が伝わってきた。当初、横浜港付近の農家から牛を購入しようと試みたが、農民たちには食用の文化がなく食用にされることを知って牛を売ることを拒んだため中国大陸や朝鮮半島あるいはアメリカ合衆国から食用牛を仕入れていた。しかし居留地人口の増加に伴い牛肉の需要が増加すると、それだけではとても間に合わなくなって来た。やがて近畿地方や中国地方が和牛の産地であるのを知り、これらの土地の家畜商に依頼して神戸を経由して横浜へ食用牛を輸送させて供給を満たした。このような背景の元、江戸幕府は元治元年(1864年)、居留地に指定されていた横浜の海岸通に屠牛場の開設を認めた。 屠場開設から2年遡った文久2年(1862年)に横浜入船町で居酒屋を営んでいた「伊勢熊(いせくま)」が1軒の店を2つに仕切り、片側を牛鍋屋として開業したのが最初の事例とされる。 また、文久2年(1862年)に横浜で生糸業を営んでいた久保田松之助が料理屋を開業、そこで牛鍋を提供していたという事例もある。幕末期、開港場の横浜では牛肉の煮売り屋台があった。1867年、江戸の芝で珍しい牛肉屋を開いていた、中川屋嘉兵衛の「中川」も牛鍋屋を開業した。明治元年(1868年)、高橋音吉が「太田なわのれん」を創業し、浅い鉄鍋を使いぶつ切りの牛肉を味噌だれで煮る牛鍋を提供した。同年、横浜に続いて東京の芝にも外国人向け屠牛場ができると、牛鍋屋の流行は飛び火し、それ以降の牛食は文明開化の象徴となった。関西でも、1869年(明治2年)に神戸元町に牛肉店「月下亭」が開店している。 1870年(明治3年)、福澤諭吉は築地の牛馬会社の求めに応じて書いた牛肉や牛乳の摂取を勧める宣伝文『肉食之説』で 古来我日本国は農業をつとめ、人の常食五穀を用い肉類を喰うこと稀にして、人身の栄養一方に偏り自から病弱の者多ければ、今より大に牧牛羊の法を開き、其肉を用い其乳汁を飮み滋養の欠を補うべき筈なれども、数千百年の久しき、一国の風俗を成し、肉食を穢たるものの如く云いなし、妄に之を嫌う者多し。畢竟人の天性を知らず人身の窮理を弁えざる無学文盲の空論なり。 — 福澤諭吉、『肉食之説』:旧字旧仮名 - 青空文庫 と表現していた。 1871年(明治4年)に仮名垣魯文はこうした状況を『安愚楽鍋』で「士農工商老若男女賢愚貧福おしなべて、牛鍋食わねば開化不進奴(ひらけぬやつ)」と表現していた。 『安愚楽鍋』には東京の牛肉店の様子が書かれており、多種多様な牛鍋が表現されていて、その中にすき焼きもある。松尾は1854年(嘉永7年) に箕作玩甫が長崎で農具のスキでスキ焼きを食べてから,1871年(明治4年)の安愚楽鍋での鉄製の厚手の縁のある浅いスキ焼き鍋に変わり,現在のスキ焼きに 20年足らずで統一(定型化)された可能性があると書いている。 坂井は明治の初めの牛鍋というのは牛肉を使った鍋料理全般を指し、肉と葱を使うというところまでは共通理解であったが、他は客が決めていたのであると書いていて、一方、すきやきはというと、当初、牛肉を使った鍋料理のうち焼肉に近い食べ方をする鍋を指したようで、これも牛鍋に含まれていたと書いている。試行錯誤が行われるうち明治7年には醤油味の鍋が主体になってきたようで、明治10年には「鍋で飯だ」というだけで鍋が出てくるようになったと書いている。 東京における牛鍋屋は1875年(明治8年)には70軒になり、1877年(明治10年)には550軒になった。 大阪では古くから大阪名物としてすき焼きと呼ばれる海魚のすき焼きがあり、これは、だしに醤油と砂糖を入れたもので鱧や鯛の造り身を煮るすき焼きであった。一律のだしでは客が喜ばないので、客が自由に自分の口に合うように煮るために醤油や砂糖は別の器物に入れていた。牛肉のすき焼きが出現すると海魚のすき焼きは冲すきというようになった。牛肉のすき焼きが盛んになるのは日清戦争後の明治30年ごろ以後である。また幕末ごろから鶏肉のすき焼き屋が流行りだしたが、大正末期に博多式の水だきが移入され、その後鶏肉のすき焼きは姿をけしてしまった。 東京の浅草に1880年(明治13年)開業した「ちんや」は明治後半に東京で関西風すき焼きが広まったために、1903年(明治36年)に「牛鍋屋」から「すき焼き専門店」に変えたと言っている 。 すき焼きは関東大震災をきっかけとして関東地方にも伝わり、牛鍋の言い換え語としてのほか、牛鍋に倣って割下を使用する鍋料理へと変化していったという説もある。 大河内正敏は、江戸式の牛鍋は、鍋に肉を重ならないように敷いて、肉の上にはたれが上らない程度に入れて、好みによってねぎをそろりと肉の上に載せるだけで待つ料理法で、御狩場焼に近いと言っている。また、上方のすき焼は初めから野菜を鍋の中で脂肪で一度炒めてから煮る。砂糖、醤油、薄い出汁をたくさん入れる。魚すきのような煮鍋だったと言っている。 古川ロッパは、東京の牛鍋は、割下で牛肉を鍋で煮るもので、野菜はネギのみ、あとはしらたきがつくぐらいのもので、豆腐などは入れなく、食べる際に生卵を使わなかったと書いている。また、大正時代に関西(京都、大阪、神戸)で食べたすき焼きは、ザラメと味噌の煮汁にたくさんのザク、青菜、湯葉、麩などを入れ、そこへ薄切り牛肉を煮込んだものだったと書いている。関東大震災後ぐらいに、東京にも関西風すき焼きが進出し、そのうち東京の牛鍋屋もすき焼きの名称を使うようになったが、大半は関西風ではなく割下を使ったものだった。また関西風すき焼きと東京風牛鍋のアイノコ流が流行ったと書いている。 大谷光瑞は、本当のすき焼きとは(1)扁平な鍋を使い、(2)油脂以外は鉄板の上に液汁を加えず、(3)牛肉が炙熟したら椀のなかの調味に浸して食う(4)肉がなくなってから蔬菜を入れて、牛肉の液汁と油脂で煎り、肉と蔬菜は共存させないと書いており、現代におけるオイル焼き、鉄板焼肉に近い料理のことを指していることがわかる。
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