牛鍋・すき焼きとは? わかりやすく解説

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牛鍋・すき焼き

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 03:54 UTC 版)

すき焼き」の記事における「牛鍋・すき焼き」の解説

牛肉すき焼き早い時期食べた資料が今も残っている。嘉永7年1854年正月5日長崎にて箕作院甫が牛肉松前の犁ですき焼きにして食べたという『西征日記』の記録である。また、長崎では牛、豚、が既に食べられていたと記述があり、鋤焼屋が安政元年1854年)までは差迄繁盛しなかったが、安政5年6年(1858年1859年)頃からぼちぼち開店する者が増したとある。 福沢諭吉は『福翁自伝』の中で適塾塾頭だった安政4年1857年)ごろ、大阪牛鍋(うしなべ)を食べられる牛肉屋が二軒あったと回想している。 幕末安政6年1859年)に横浜開港された後、外国人居留地に暮らす日本国外人々から肉食文化伝わってきた。当初横浜港付近農家から牛を購入しよう試みたが、農民たちには食用文化がなく食用にされることを知って牛を売ることを拒んだため中国大陸朝鮮半島あるいはアメリカ合衆国から食用牛を仕入れていた。しかし居留地人口の増加に伴い牛肉需要増加すると、それだけではとても間に合わなくなって来た。やがて近畿地方中国地方和牛産地であるのを知り、これらの土地家畜商依頼して神戸経由して横浜食用牛を輸送させて供給満たしたこのような背景の元、江戸幕府元治元年1864年)、居留地指定されていた横浜海岸通屠牛場開設認めた屠場開設から2年遡った文久2年1862年)に横浜入船町居酒屋営んでいた「伊勢熊(いせくま)」が1軒の店を2つ仕切り片側牛鍋屋として開業したのが最初事例とされるまた、文久2年1862年)に横浜生糸業を営んでいた久保田之助が料理屋開業、そこで牛鍋提供していたという事例もある。幕末期開港場横浜では牛肉煮売り屋台があった。1867年江戸で珍しい牛肉屋を開いていた、中川屋嘉兵衛の「中川」も牛鍋屋開業した明治元年1868年)、高橋音吉が「太田なわのれん」を創業し、浅い鉄鍋を使いぶつ切り牛肉味噌だれで煮る牛鍋提供した同年横浜続いて東京にも外国人向け屠牛場ができると、牛鍋屋流行飛び火しそれ以降牛食文明開化象徴となった関西でも、1869年明治2年)に神戸元町牛肉店「月下亭」が開店している。 1870年明治3年)、福澤諭吉築地牛馬会社求めに応じて書いた牛肉牛乳摂取勧める宣伝文『肉食之説』で 古来日本国農業をつとめ、人の常食五穀用い肉類喰うこと稀にして、人身栄養一方偏り自から病弱の者多ければ、今より大に牧牛羊の法を開き、其肉を用い乳汁飮み滋養の欠を補うべき筈なれども数千百年久しき一国風俗成し肉食を穢たるものの如く云いなし、妄に之を嫌う者多し畢竟人の天性知らず人身窮理弁えざる無学文盲空論なり。 — 福澤諭吉、『肉食之説』:旧字旧仮名 - 青空文庫表現していた。 1871年明治4年)に仮名垣魯文はこうした状況を『安愚楽鍋』で「士農工商老若男女賢愚貧福おしなべて牛鍋食わねば開化不進奴(ひらけぬやつ)」と表現していた。 『安愚楽鍋』には東京牛肉店の様子書かれており、多種多様な牛鍋表現されていて、その中にすき焼きもある。松尾1854年嘉永7年) に箕作玩甫が長崎農具スキスキ焼き食べてから,1871年明治4年)の安愚楽鍋での鉄製厚手の縁のある浅いスキ焼き鍋に変わり現在のスキ焼き20年足らず統一(定型化)された可能性があると書いている。 坂井明治初め牛鍋というのは牛肉使った鍋料理全般指し、肉とを使うというところまでは共通理解であったが、他は客が決めていたのであると書いていて、一方すきやきというと当初牛肉使った鍋料理のうち焼肉に近い食べ方をする鍋を指したようで、これも牛鍋含まれていたと書いている。試行錯誤が行われるうち明治7年には醤油味の鍋が主体になってきたようで、明治10年には「鍋で飯だ」というだけで鍋が出てくるようになったと書いている。 東京における牛鍋屋1875年明治8年)には70軒になり、1877年明治10年)には550になった大阪では古くから大阪名物としてすき焼き呼ばれる海魚すき焼きがあり、これは、だしに醤油砂糖入れたもので造り身を煮るすき焼きであった一律のだしでは客が喜ばないので、客が自由に自分口に合うように煮るために醤油砂糖別の器物入れていた。牛肉すき焼き出現する海魚すき焼き冲すきというようになった牛肉すき焼き盛んになるのは日清戦争後明治30年ごろ以後である。また幕末ごろから鶏肉すき焼き屋が流行りだしたが、大正末期博多式のだきが移入されその後鶏肉すき焼きは姿をけしてしまった。 東京浅草1880年明治13年開業した「ちんや」は明治後半東京関西すき焼き広まったために、1903年明治36年)に「牛鍋屋」から「すき焼き専門店」に変えたと言っている 。 すき焼き関東大震災きっかけとして関東地方にも伝わり牛鍋言い換えとしてのほか、牛鍋倣って割下使用する鍋料理へと変化していったという説もある。 大河内正敏は、江戸式の牛鍋は、鍋に肉を重ならないように敷いて、肉の上にはたれが上らない程度入れて好みによってねぎをそろりと肉の上載せるだけで待つ料理法で、御狩場焼に近いと言っている。また、上方すき焼初めから野菜鍋の中脂肪一度炒めてから煮る。砂糖醤油、薄い出汁をたくさん入れる。魚すきのような煮鍋だったと言っている。 古川ロッパは、東京牛鍋は、割下牛肉を鍋で煮るもので、野菜ネギのみ、あとはしらたきがつくぐらいのもので、豆腐などは入れなく、食べる際に生卵を使わなかったと書いている。また、大正時代関西(京都大阪神戸)で食べたすき焼きは、ザラメ味噌煮汁たくさんのザク青菜湯葉、麩などを入れ、そこへ薄切り牛肉煮込んだのだったと書いている。関東大震災後ぐらいに、東京にも関西すき焼き進出しそのうち東京牛鍋屋すき焼きの名称を使うようになったが、大半関西ではなく割下使ったのだった。また関西すき焼き東京牛鍋アイノコ流が流行ったと書いている。 大谷光瑞は、本当すき焼きとは(1)扁平な鍋を使い、(2)油脂以外は鉄板の上液汁加えず(3)牛肉が炙熟したのなかの調味浸して食う(4)肉がなくなってから蔬菜入れて牛肉液汁油脂煎り、肉と蔬菜共存させないと書いており、現代におけるオイル焼き鉄板焼肉に近い料理のことを指していることがわかる。

※この「牛鍋・すき焼き」の解説は、「すき焼き」の解説の一部です。
「牛鍋・すき焼き」を含む「すき焼き」の記事については、「すき焼き」の概要を参照ください。

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