牛金星とは? わかりやすく解説

牛金星

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/10 08:31 UTC 版)

牛 金星(ぎゅう きんせい、? - 1652年)は、明朝末期、李自成軍師政治家。字は聚明。河南宝豊県陂北里大牛庄の出身。

生涯

1627年天啓7年)、挙人に及第した。謀略に長けていたという。後に、中原一帯に勢力を拡大していた李自成率いる反乱軍に身を投じた。流賊出身で盗賊的性格の強い李自成軍に対し、刑罰を寛容にし飢民に施しを与え、人心を掌握するよう提言したという。1640年崇禎13年)冬、同じく挙人出身の李巌を李自成に推薦する[1]

1644年(崇禎17年)正月、李自成が樹立した順政権において天祐殿大学士に指名され、知識人出身者の少ない李自成軍において非常に重宝された。またこの頃、後に有名になる宋献策を推挙したという。牛は非常に度量が狭い人物だったと言われ、李自成が北京を陥落させるとその宰相として専権を振るい、李自成に皇帝の即位式を行うようしきりに要請していた。呉三桂が清兵を率いて山海関から北京に迫ると呉三桂の父と一族を皆殺しにした。

呉三桂の軍が迫る中、李自成は牛の進言を受け入れ、紫禁城の武英殿において即位の大典を行った。その翌日、残党を率いて李自成と共に北京から逃亡した。その途中、意見が対立していた李巌を讒言して謀殺し、劉宗敏と宋献策をはじめとして李自成軍の古参が離反する要因を作り出したという。

その後、1645年順治2年)夏、牛金星とその子の牛佺は清に投降し、官職を授けられる。牛佺は黄州の知府に任じられた一方、牛金星は同じく清に登用されていた明朝の官僚出身者からの評判が非常に悪く、清の朝廷もその扱いに苦慮したという。1652年(順治9年)、子の牛佺が勤務する役所において病没した。

伝記資料

  1. ^ ただし、李巌は代の軍記物『李氏家譜』で創作された架空の人物という説が有力

牛金星(ぎゅう きんせい)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/16 09:18 UTC 版)

碧血剣」の記事における「牛金星(ぎゅう きんせい)」の解説

李自成腹心部下李自成讒言をして忠良な臣下陥れる

※この「牛金星(ぎゅう きんせい)」の解説は、「碧血剣」の解説の一部です。
「牛金星(ぎゅう きんせい)」を含む「碧血剣」の記事については、「碧血剣」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「牛金星」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「牛金星」の関連用語

牛金星のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



牛金星のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの牛金星 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの碧血剣 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS