東京音楽学校
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詳細は「東京音楽学校 (旧制)」を参照 1878年(明治11年)、伊沢修二は、目賀田種太郎と連名で音楽教育の意見書を文部大臣に提出。1879年(明治12年)、文部省に伊沢修二を御用掛とする音楽取調掛が設立され、日本の音楽教育に関する諸調査等を目的とした。 翌年以降、東京師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)生や東京女子師範学校附属幼稚園(現・お茶の水女子大学附属幼稚園)生への音楽教育を行う教員の育成を行い、音楽専門教育機関の役割を果たすようになった。その後、数回の名称変更を経て、1887年(明治20年)10月4日に「東京音楽学校」と改称される。1890年5月12日には新校舎(現在の旧東京音楽学校奏楽堂が含まれていた校舎)が現在の奏楽堂の位置に落成された。 また1893年(明治26年)に、一時東京高等師範学校(東京教育大学を経た、現在の筑波大学)の附属学校となったが、1899年(明治32年)に独立。数回に渡る機構改革を経て「東京藝術大学」開学の2年後(1952年(昭和27年))に閉校した。 音楽取調掛(1879年頃) お雇い外国人ルーサー・メーソン 初期の教員(中央左がメーソン) 新設時の東京音楽学校正門(1890年) 東京音楽学校(1926年) 東京音楽学校の教員と学生 伊沢修二 初代校長
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東京音楽学校
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桐島 笙子(きりしま しょうこ) 本科・声楽部の生徒。ありあの1年先輩。声楽部の華で、中心的存在。 小松 早苗(こまつ さなえ) 予科の生徒。女子寮でありあと同室になる。美しく才能あるありあに憧れている。 北山 キリト(きたやま きりと) 本科・器楽部の生徒。ありあの1年先輩。個性的なピアノを弾き声楽部に移ったありあの伴奏をする。 白雪 真之介(しらゆき しんのすけ) ありあの才能を認め、既婚者であるが、ありあの想いに心を揺さぶられる。妻の死後間もなく、自身も結核で亡くなる。 ペッツォルト ドイツ人教師。厳しいことで有名。実在した人物。
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東京音楽学校
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昭和17年(1942年)4月、東京音楽学校(現・東京藝術大学)作曲科・予科への入学を果たす。同期に團伊玖磨、大中恩、村野弘二がいた。音楽学校では信時潔、細川碧に作曲を師事するほか指揮法も学んだ。翌年4月には作曲科・本科へ進級、同期は恭一のほか團伊玖磨、大中恩、島岡譲、村野弘二、友野秋雄、竹上洋子の計7名であった恭一の短い音校生活の様子を伝えるエピソードが幾つか残されているので、以下に記す。 音校時代僕は副科でラッパやってたんだけど、ある日鬼頭が「ちょっとラッパ持って、一緒に来てくれ」って言うんだ。どこ行くのかなーとついてったら、寮らしい建物の前で「ラッパ吹け」という。何でこんなとこで、と思いながらパッパーとやったら、窓から一斉に若い女の子が顔を出した。もう恥ずかしったらありゃしない。やがて玄関から一人の女の子が出てきて、鬼頭と嬉しそうに喋ってる。「あー彼女がいるんだ、いいなあ」と思ったね。 当時僕の家は教会だったんだけど、鬼頭と團 (伊玖磨)が「パイプオルガンが見たい」と言うので、一緒に連れて行ったんだ。たまたま親父 (大中寅二)がいて出て来たんだけど、鬼頭はまったく怯む様子もなく、生意気な事をいっぱい喋ってる。もうこちらはハラハラ。でも二人が帰ったあと親父が「あの鬼頭という男は、なかなか骨のある奴だ」と言っていた。若い音校生と話ができて、親父もきっと嬉しかったんじゃないのかな。 昭和18年7月、音楽學校生徒は軽井沢で行われた「学徒挺身隊」という名の軍事教練に参加した。一週間位行っていたと思う。他の大学や専門学校の生徒も来ていたが、各学校ごとに纏まって行動していた。僕はそこで管楽器の上級生に殴られた。そのとき「作曲科の奴ら生意気だ」という言葉が飛んできた。その頃の管楽器の生徒の中には、音楽学校へ来る前に学校の先生なんかやってた人が何人かいて、そういう人達からみれば、僕なんか生意気に見えたかも知れない。しかしそういう時に、團伊玖磨なんかは殴られなかった。彼は「やんごとなき家の生まれ」(註/團の父親は男爵・團伊能) だったので、特別扱いされていたようだ。僕は後日海軍に入って日常的に殴られたが、人に殴られたというのは、軽井沢が初めてだった。 兄が学徒出陣で出征する直前の昭和18年秋、名古屋や奈良などで開催された東京音楽学校の演奏旅行の機会に、4、5人の同級生仲間と一緒に家に立ち寄ったときのことです。金さんといって、朝鮮出身のものすごく背が高い人がおり、コントラバス奏者だということでした。作曲科の兄はオケではティンパニーを受け持っていましたが、この日は友人の使うシンバルをリュックに背負っていました。そういう気のやさしいところもあったのです。家で食事をし、お酒も入って、みんなは「四季」の中の秋の歌をうたったりして、にぎやかに騒いでいました。そのとき聞いた話だと思いますが、どこかの演奏会の最中に突然停電があったそうです。ちょうど兄がティンパニーを打っているときでしたが、兄はそのまま拍子をとり続けたので、ほかの人たちも止まることなく演奏を続けられたということでした。指揮者は見えなくても音はきこえるからね、と威張っていました。
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東京音楽学校
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1942年(昭和17年)春、東京音楽学校を受験し合格、予科に入学する。同期の「作曲志願の者」は、弘二の他、團伊玖磨、大中恩、島岡譲、鬼頭恭一、友野秋雄、竹上洋子の計7名である。 弘二は下総 皖一の作曲の授業を團と二人組で受けていたことが、東京藝術大学史料室に残されている下総の時間割から分かる。ほかに、理論を橋本國彦、ピアノを永井進に師事。 東京では、江古田にあった伯母の婚家に下宿した。慶応義塾大学に進学した同級生 伊藤 淳二の日吉の寄宿舎を訪ねたことがあり、終日、芸術論に花を咲かせた思い出を伊藤が『おおとり』に書いている。 1943年(昭和18年)10月、戦局悪化により学生の徴兵猶予が取り消され、弘二も11月15日に繰り上げ卒業、12月1日に入営することになった。この直前、11月13日に音楽学校の奏楽堂にて第149回 報国団 出陣学徒壮行演奏会が催され、弘二は、歌劇『白狐』第二幕『こるはの独唱』を発表する。アルト独唱は戸田 敏子、ピアノ伴奏 太田 道子。 この演奏会での発表が好評を博したため、弘二は『白狐』を他の3作品と共にレコードに録音する。レコードは演奏者のほか親戚や先生方に配られた。以下のSPレコード3枚組として現存している。レコードは「東京・下目黒 音響科学研究所」で作成された「音研音盤」である。 〔表〕『こるはの独唱(一)』 作詞 岡倉天心、作曲 村野弘二、独唱 戸田敏子、ピアノ伴奏 高橋美代子 〔裏〕『この朝のなげかひは』 作詞 大木惇夫、作曲 村野弘二、独唱 畑中良輔、ピアノ伴奏 村野弘二 〔表〕『こるはの独唱(二)』 〔裏〕『こるはの独唱(三)』 〔表〕『重たげの夢(一)』 作詞 三好達治、作曲 村野弘二、独唱 戸田敏子、ピアノ伴奏 村野弘二、チェロ伴奏 井上みどり 〔裏〕『重たげの夢(二)』 『君の為』 御歌 宗良親王、謹曲 村野弘二、謹唱 村野弘二、ピアノ伴奏 高橋美代子 音楽学校在学中の貴重な楽譜や書物は、出生する際に弘二自身が選別し父に保管を頼んだ。父は神戸より安全と思われた福井市宝永中町にあった弘二の実母の実家 鷲田家に送ったが、福井空襲ですべて焼失した。現存する音楽学校入学後の自作楽譜は、おそらくレコードの吹込み用に用意したと思われる上記4曲だけである。空襲で焼けなかった神戸の実家で残された。
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