第一校歌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 00:48 UTC 版)
作詞は鳥居忱(東京音楽学校教授)、選曲(スコットランド民謡旋律)は島崎赤太郎(東京音楽学校教授)による。歌詞は4番まである。
※この「第一校歌」の解説は、「北海道第一師範学校」の解説の一部です。
「第一校歌」を含む「北海道第一師範学校」の記事については、「北海道第一師範学校」の概要を参照ください。
第一校歌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/22 03:02 UTC 版)
「栃木県立宇都宮工業高等学校」の記事における「第一校歌」の解説
第一校歌の作曲者は、宇都宮短期大学創設者の須賀友正。須賀が作曲するに至った経緯は不明だが、初代校長であり、旧宇都宮商工会議所などの名建築を残した安 美賀と何らかの交流があったのかもしれない。制定は1930年である。「第一校歌」の原曲となるもので、3/4拍子の楽曲であった。当初は3番まで歌詞が存在したが、1945年の第二次世界大戦終了後、2番の歌詞内容が反民主主義的であるというGHQ(連合国最高司令官総司令部)の指摘を受け、削除された。従って当時の3番が現在の2番という形を採っている。 宇工音楽部の創設者、世界的ミュージシャンの渡辺貞夫が在学中の1950年、夏の甲子園に初出場しベスト4に進出した野球部の凱旋パレード演奏を行った。当時わずか3名(アルトサクソフォン・トランペット・打楽器)の部員により「錨をあげて」などの行進曲と共に校歌も演奏されたが、3拍子のため歩きにくく、野球部から「すまないが、もう少し離れて演奏してくれ」と物言いがついた。そのため渡辺らは隊列が近づくと走って100メートル先で演奏し、また近づいてくると走って移動ということを繰り返したと伝えられる。 新校舎への移転直前まで、京町の旧校舎に、渡辺貞夫が授業をサボって弾いていたとされる「伝説のオルガン」が存在した。 この旧校歌は、1965年頃、当時の音楽科教諭によって4/4拍子に改編されると共に、若干のメロディの改訂(解決していなかったメロディ終結部の和声を解決させる等)がなされ、現在の「第一校歌」となったが、改訂に対しては卒業生から不満の声が多く上がったという。1986年、宇工野球部が1959年の選手権大会準優勝以来、27年ぶりに夏の甲子園に出場。緒戦を突破した校歌斉唱の後、NHKアナウンサーが隣席のOBに「校歌は27年前と変わりませんか?」と問うた。その返答は「メロディが変わっているようですね」というものであった。 改訂後、3/4拍子の旧校歌は公式の場で聴かれることは無かったが、1981年2月に宇都宮市文化会館大ホールで行われた予餞会(卒業生の壮行会)において、宇工OBでもある当時の教頭が、幻の2番を含め無伴奏でこれを独唱。全校生徒に披露した。 奇しくも同年9月1日、作曲者の須賀が世を去っている。
※この「第一校歌」の解説は、「栃木県立宇都宮工業高等学校」の解説の一部です。
「第一校歌」を含む「栃木県立宇都宮工業高等学校」の記事については、「栃木県立宇都宮工業高等学校」の概要を参照ください。
- 第一校歌のページへのリンク