第一条 - 第十条
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 05:46 UTC 版)
第一条から第十条は、親鸞が直接唯円に語ったとされる言葉が書かれている。 第一条では、阿弥陀仏はすべての人々を救うという本願を立てているが、ただ他力の信心(平生に阿弥陀仏の本願(=真実の仏教)を聞く一念の瞬間に阿弥陀仏より頂く、弥陀の本願に微塵の疑いもなくなった心)が要である。念仏者(=阿弥陀仏より他力の信心を頂いた計り知れない御恩に、お礼の言葉として念仏を称えずにいられなくなった者)は肉体がいつ死んでも極楽往生間違いない身になっているから、極楽往生のためにする善はもはや不要であり、また如何なる悪を犯しても極楽往生の妨げにはならないと説かれている。 第二条は、善鸞などの異説について関東から上洛して親鸞に直接尋ねに来た同行・僧侶達への親鸞の回答を長文で記している。明確な答えを期待していたであろう彼らに対し親鸞は「はるばる関東から命がけで京都にまでやってきたのは明確な回答がほしいからだろうがそれは間違いである。奈良や比叡山にましますご立派な学僧たちに聞いたらいいだろう。この親鸞がやっていることは『(罪悪深重の我々衆生が助かる道は)ただ念仏して弥陀の本願に救い取られる以外にない』という法然上人の教えに従って念仏している以外に何もない。たとえ法然上人にだまされていて地獄に落ちたとしても何の後悔もない。もし、私がそれまでの念仏以外の修行を続けていたら仏になれたのに、念仏をしたおかげで地獄に落ちたというのなら後悔もあろうが、どんな修行も中途半端にしかできない私はどのみち地獄が定められた住み家だからである。もし弥陀の本願は真実ならば、それ一つを教えている釈尊の説法も、善導の解釈も、法然の言葉も嘘であるはずがない。だからそのことをそのまま伝えているこの親鸞の言うことも、そらごととは言えないのではなかろうか - 愚かな私の信心は、このようなものある。この上は念仏を信じるも捨てるも各々の勝手である」と、一見突き放すように答えている。 この親鸞の回答は「念仏称えたら地獄か極楽か、私は全く知らない」と文字通り言っているのではなく、同様に「弥陀の本願まことにおわしまさば…」という一節も「もし本願がまことであるとするならば」という仮定ではなく「弥陀の本願よりも確かなものはこの世にない」という親鸞の信心を言い表したものであると言う説がある。 第三条は、悪人正機説を明快に説いたものとして、「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」は現在でもよく引用されている。詳細は、悪人正機を参照のこと。 第四条は、聖道仏教と浄土仏教の慈悲の違いが説かれている。聖道仏教の慈悲とは人間の頭で考える慈悲であり、それでいくら人々を救おうとしても限界がある。だから生きているうちに早く他力の信心を得て浄土に行って仏となり、仏の力によって人々を弥陀の浄土へと導くことこそが真の慈悲=浄土の慈悲である、と説かれている。 第五条では、「親鸞は一度も父母のために念仏したことがない」として、追善供養を否定している。念仏は自分の善ではないからである。そんな形ばかりの追善供養をするより、生きているうちに早く他力の信心を得なさい。そうすれば浄土で仏となって自由自在に多くの縁者の救済ができるようになるのだから、と説いている。 第六条では、この親鸞には弟子など一人もいない。表面上は親鸞の下で仏法を聞き念仏を称えるようになったように見えるかもしれないが、これも本当は全く弥陀のお力によるものである。だから「この人達は俺の裁量で仏法聞くようになったのだ」などと考えるのは極めて極めて傲慢不遜であり、決してあってはならぬことだ。だから人と人との複雑な因縁に拠って別の師の下で聞法し念仏を称えるようになった人は浄土へは行けないなどとは決して言うべきではない、と説かれている。 第七条では、ひとたび他力の信心を得た者=念仏者にとっては、悪魔・外道、図らずも造ってしまう悪業など、如何なるものも極楽往生の妨げにはならないと説かれている。 第八条では、他力の信心を得た者の称える念仏は自力(自分の計らい)で行うものではないので、行でも善でもないと説かれている。 第九条は、「私も他力の信心を得て極楽行き間違いない身になりましたが、念仏を称えても経文にあるような躍り上がるような喜びの心が起こらず、少しでも早く極楽浄土に行きたいという気持ちにならないのは何故でしょうか」という唯円の疑問に対しての生々しい問答を長文で記している。親鸞は「唯円よ、お前もか。実は、私も全く同じ心なのだ」と答えている。躍り上がるほど喜ぶべきことを喜べないのは煩悩の仕業であり、阿弥陀仏はそんな煩悩で一杯の衆生を救うために本願を建てられたのだ。だからこれはむしろ自分たちの極楽往生が間違いない証なのである。早く極楽に行きたくないどころか、少しでも病気になると「死んでしまうのでは」と不安になるのも煩悩の仕業とし、「長い間輪廻を繰り返して滞在してきたこの苦悩に満ちた世界だが、それでも故郷のような愛着があり、行ったことがない極楽には早く行きたい気持ちも起こらない。だからこそそんな凡夫のために起こされた弥陀の本願がますます頼もしく思える。もし躍り上がるような喜びの心が起こり、極楽浄土に早く行きたいという気持が起こるなら、自分には煩悩がないのかと疑問に思ってしまうだろう」と説いている。 第十条は、他力不思議の念仏は言うことも説くことも想像すらもできない、一切の人智の計らいを超越したものである、と説かれている。
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