映像作家として
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映画監督としては日本人特有の民族性・風土をテーマにした作品で有名。大島渚グループとの親交が深く、劇場用デビュー中篇『宵闇せまれば』の脚本を大島が執筆したほか、田村孟、佐々木守、石堂淑朗といった脚本家と組んだ。ヤマト王権以前のまつろわぬ神々、日本原住民的なものへの興味は、こうした脚本家たちとの間で醸成され、『ウルトラQザ・ムービー』『帝都物語』にまで受け継がれている。とりわけ、石堂とはデビュー長編『無常』以下『曼陀羅』、『哥』のATG三部作でタッグを組み、京都・滋賀・福井にかけての陰鬱な景色を切り取りながらの強烈なディスカッションは、当時の日本映画に大きな衝撃を与えた。1974年刊行の小学館万有百科事典第3巻「音楽・演劇」内の「日本映画」の項目では黒澤明、木下恵介、市川崑、山田洋次と並べて挙げられた現役(当時の)有力監督5人の一人となっている(執筆は滝沢一)。 エロティシズムへの拘りから、容赦ない性描写も話題を呼び、「膣掃除」の異名を奉られたこともある。女優のオーディションをする際にも、「2万回くらいヤってやり疲れたような女が欲しい」と嘯いていた。寺田農は実相寺のエロティシズムの本質はSMであると語っている。池谷仙克によると、酒を飲んでも映像論を語るようなことはしなかった。ウルトラ怪獣も女性も、異形のものが全般的に好きだったと語っている。 多くの作品でタッグを組んだ美術・池谷仙克、撮影監督・中堀正夫、照明監督・牛場賢二らとともに独特な構図・照明を行い(彼らは助手時代を含めると約40年実相寺作品に関わり続けており、初参加する俳優はその一糸乱れぬチームワークと映像作りに驚嘆したという)、また終生つきあい続けた岸田森、寺田農を筆頭に個性の強い「実相寺組」の俳優陣(田村亮、小林昭二、草野大悟、堀内正美、清水綋治、東野英心、嶋田久作、佐野史郎、桜井浩子、加賀恵子、吉行由実、大家由祐子、三輪ひとみなど)の魅力と相俟って何とも言えない陰翳・情感を醸し出している作品が多い。ことに岸田森は、『怪奇大作戦』で恋愛話を撮り、担当ドラマで「レギュラーに対する共感をもったのは岸田森から」と述べている。演出姿勢として自らの画に集中し、役者がどう演技するかは拘らなかった。寺田農は「最期まで役者の芝居を信じなかった人だった」と語っている。このため「まるで小道具扱い」と捉え、実相寺作品に出るのを嫌がった俳優も多かった。 特撮関係では特技監督で大木淳、デザイナーとしては池谷仙克、プロデューサーとしては鈴木政信らが、円谷特技プロ時代からコダイグループ結成後まで長年実相寺作品を支え、名スタッフとされた。 作風はとにかく「エキセントリック」の一語に尽きる。特にアリフレックスなどの16mmキャメラの軽さを生かし、斜めからのアングル、「なめ」、「レフ板」を極端に排除して逆光を浴びる登場人物、ワイドレンズを使っての画面が歪むほどの接写といった特異なカットを多用した。『現代の主役 ウルトラQのおやじ』での対談シーンでは、部屋の隅や鳥籠など物越しに撮る「なめの手法」に拘り、円谷英二監督に「ずいぶん変なところから撮るね。鳥籠どけたげようか?」と言われ、東宝の森岩雄プロデューサーにも「窮屈なところにカメラが入ってて大丈夫ですか?」と声をかけられたと述懐している。この際に円谷監督に、「パララックス(視差)のあるミッチェルキャメラだと、対象に集中して撮影できるんだ。一度ミッチェルで撮らせてあげたいな」と言われたといい、後年に『宵闇せまれば』で35mmのミッチェルを使用し、「初めて円谷監督の言葉の意味がわかった、ミッチェルの横綱相撲の前に、小賢しい16mmのポジション撮影が馬鹿らしくなった」と語っている。 TBS時代は、欧州でヌーヴェルヴァーグの隆盛期でもあり、キャメラを手持ち用に改造させたり、13尺高の真っ白いセットを組んで下からマイクを入れる、『大人は判ってくれない』(1959年、フランソワ・トリュフォー監督)のストップモーション技法に触発され、芝居のタイミングに合わせてフリップにしたスチール写真を映し、同様の効果を狙うなど、ビデオ撮りの映像で様々な技法を試している。が、結果としてこれらの前衛姿勢が局の理解を得られず、干される原因となったのは来歴の通りである。 また、実相寺は円谷特撮の醍醐味は「ミニチュアや物への質感の拘り、フェティシズムである」と論じ、CGで暴れるゴジラなど見たくもない、とも述べている。「お涙頂戴の難病物や凡百の心理ドラマよりも職人性が発揮される特撮フィクションが格下とみられがち」なテレビ界の風潮を残念がり、「ぼくはダイニングキッチンが出てくると見ないようにしている」、「バカバカしいけど面白い、それがフィクションだ」と語っている。差別や階級あってこそのドラマであり、「貴族のいない社会に芸術は生まれない」とも述べている。 実相寺の撮影現場は一種独特な雰囲気であり、スタッフと友達のような関係を築きながら自らの世界に引き込み、スタッフは実相寺の高度なイメージの謎に魅せられながら仕事を共にするという、カリスマめいたものがあった。これを上原正三は、「いわば実相寺という宮司を中心とした、神事か祭のような現場だった」と表現し、「実相寺教の儀式めいた雰囲気があった」と述べている。これを受けて池谷仙克は、「創作者は一人で狂気の中に入っていくもの、また映画は大勢で狂気の世界に入っていく。そのある意味狂った儀式の中心に実相寺監督はいた」と語っている。 1980年代以降は、戦前・戦後の東京を舞台とした作品を多く手掛けている。特に江戸川乱歩作品については、実相寺自身が東京の変化に気づいた時に乱歩の作品で描写される戦前の情景を印象的なものと感じるようになり、ミステリー部分に並ぶ重要な要素と位置づけている。TBSのディレクター時代は東京が大きく変化する東京オリンピックの渦中にいたため、乱歩作品を映像化することは考えていなかったという。 晩年は病も重なって言語によるスタッフへのコミュニケーションが度々不自由になり、叱責することなど多分になかった実相寺が苛立つことが多くなった。ある晩年時の撮影の最中、カメラのフレームに撮影機材が映り込みスタッフの一人が退かせようとしたが、実相寺は激怒してそれを止めたという。脚本のト書きに虚構と書いてあるから退ける必要はないというのがその理由だったが、撮影現場の全てが虚構の対象であるという実相寺独自の持論が垣間見えた逸話である。
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