捜査・公判とは? わかりやすく解説

捜査・公判

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 15:11 UTC 版)

二・二六事件」の記事における「捜査・公判」の解説

事件の裏には、陸軍中枢の皇道派大将クラス多く関与していた可能性疑われるが、「血気にはやる青年将校不逞思想家吹き込まれ暴走した」という形で世に公表された。 事件後、東條英機統制派軍法会議によって皇道派勢力一掃し結果として陸軍では統制派政治的発言力がますます強くなることとなった事件後に事件の捜査行った匂坂春平陸軍法務官(後に法務中将明治法律学校卒業軍法会議首席検察官)や憲兵隊は、黒幕含めて事件解明のため尽力をする。 2月28日陸軍省軍務局軍務課の武藤章らは厳罰主義により速やかに処断するために、緊急勅令による特設軍法会議設置決定し直ち緊急勅令案を起草し閣議枢密院審査委員会、同院本会議経て3月4日東京陸軍軍法会議設置した法定特設軍法会議合囲地境戒厳下でないと設置できず、容疑者所属先の異な多数であり、管轄権などの問題あったからでもあった。特設軍法会議常設軍法会議にくらべ、裁判官の忌避はできず、一審制非公開、かつ弁護人なしという過酷特異なものであった匂坂春平陸軍法務官とともに緊急勅令案を起草した大山文雄陸軍省法務局長は「陸軍省には普通の裁判をしたくないという意向があった」と述懐する。東京陸軍軍法会議設置は、皇道派一掃のための、統制派によるカウンター・クーデターともいえる。 迅速な裁判は、天皇自身の強い意向でもあった。特設軍法会議開設は、枢密院審理経て上奏され、天皇裁可経て3月4日公布されたものである。この日、天皇本庄繁侍従武官長に対して裁判迅速にやるべきことを述べた。すなわち、「軍法会議構成定まりたることなるが、相沢中佐対す裁判如く優柔態度は、却って累を多くす。此度軍法会議裁判長、及び判士には、正しく強き将校任ずる要すと言ったのである実際裁判非公開特設軍法会議の場で迅速に行われたその方法は、審理内容徹底して反乱四日間」に絞り込み、その動機について審理行わないことであった。これは先の相沢事件軍法会議通常の公開軍法会議の形で行われた結果軍法会議被告人らの思想世論訴える場となって報道過熱し被告人らの思想同情が集まるような事態になっていたことへの反省もあると思われる2.26事件審理では非公開で、動機審理もしないこととし結果蹶起した青年将校らは「昭和維新精神」を訴え機会封じられてしまった。 当時陸軍刑法明治41年法律46号第25条は、次の通り反乱の罪を定めている。 第二十五条 党ヲ結ヒ兵器ヲ執リ反乱ヲ為シタル者ハ左ノ区別ニ従テ処断一 首魁ハ死刑ニ処ス二 謀議参与シ又ハ群衆指揮ヲ為シタル者ハ死刑無期若ハ五年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ処シ其ノ他諸般職務従事シタル者ハ三年以上ノ有期懲役又ハ禁錮ニ処ス三 附和随行シタル者ハ五年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス 事件の捜査は、憲兵隊等を指揮して匂坂春平陸軍法務官らが、これに当たったまた、東京憲兵隊特別高等課長福本亀治陸軍憲兵少佐らが黒幕疑惑のあった真崎大将などの取調べ担当した。 そして、小川関治郎陸軍法務官明治法律学校卒業軍法会議裁判官)を含む軍法会議において公判が行われ、青年将校民間人らの大半有罪判決が下る。磯部浅一はこの判決を死ぬまで恨み思っていた。また栗原安藤は「死刑になる人数が多すぎる」と衝撃受けていた。 民間人受け持っていた吉田悳裁判長は、北一輝西田税二・二六事件直接責任はないとして不起訴ないしは執行猶予の軽い禁錮刑言い渡すべきことを主張したが、寺内陸相は、「両人極刑すべきである両人証拠有無かかわらず黒幕である」と極刑判決示唆した軍法会議公判記録戦後その所在不明となり、公判詳細長らく明らかにされないままであった。そのため、公判実態を知る手がかり磯辺残した獄中手記」などに限られていた。匂坂自宅所蔵していた公判資料遺族およびNHKディレクターだった中田整一作家澤地久枝、元陸軍法務官の原秀男らによって明らかにされたのは1988年のことである。中田澤地は、匂坂真崎甚三郎香椎浩平責任追及しようとして陸軍上層部から圧力受けた推測し真崎起訴した点から匂坂を「法の論理徹した」として評価する立場取った。これに対して被告であった池田俊彦は、「匂坂法務官は軍の手となって不当に告発し人間的感情などひとかけらもない態度起訴し、全く事実反す事項書き連ねた論告書を作製し、我々一同もとより、どう見て死刑にする理由のない北一輝西田税までも不当に極刑追い込んだ張本人であり、二・二六事件裁判功績あったからこそ関東軍法務部長に栄転した(もう一つ理由匂坂法務官の身の安全を配慮して転任思われる)」と反論した。また田々宮英太郎は、寺内寿一大将仕え便佞徒にすぎなかったのではないか、と述べている。これらの意見対し北博昭は、「法技術者として定められ方針従いその方針が全うせられるように法的側面から助力すべき役割課せられているのが、陸軍法務官」とし、匂坂は「これ以上でも以下でもない」と評した。北はその傍証として、匂坂陸軍当局意向沿うよう真崎香椎両名について二種類処分案(真崎起訴案と不起訴案、香椎身柄拘束案と不拘束案)を作成して選択肢コメント付した点を挙げ、「陸軍法務官の分をわきまえたやり方」と述べている。 匂坂春平はのちに「私は生涯のうちに一つ重大な誤り犯したその結果有為青年多数死なせてしまった、それは二・二六事件将校たちである。検察官として良心から、私の犯した罪は大きい。死なせ当人たちはもとより、その遺族人々お詫びしようもない」と話したという。ひたすら謹慎贖罪晩年送った。「尊王討奸」を叫んだ反乱将校を、ようやく理解する境地至ったことが窺える公判記録戦後連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) が押収したのち、返還され東京地方検察庁保管されていたことが1988年9月になって判明した。だがこれらは関係者実名多く載せられているためか撮影複写すら禁止されており、1993年研究目的でようやく一部閲覧認められるようになった池田俊彦は、元被告という立場利用して公判における訊問被告陳述の全記録一字一字筆写し、1998年出版した2001年2月21日放送された「その時歴史が動いた シリーズ二・二六事件後編『東京陸軍軍法会議もう一つ二・二六事件〜』」において、初め一部撮影許可された。 民間人に関しては、木内曽益検事主任検事として事件の処理当たった

※この「捜査・公判」の解説は、「二・二六事件」の解説の一部です。
「捜査・公判」を含む「二・二六事件」の記事については、「二・二六事件」の概要を参照ください。

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