古代〜中世
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古代〜中世の藤戸の渡は、別名を藤戸の泊(ふじとのとまり)や児島の泊(こじまのとまり)、児島の渡(こじまのわたし、こじまのわたり)ともいわれ、瀬戸内海を航行する船の停泊や対岸への渡し船を行う港があった。児島が本土から切離されていた頃は、瀬戸内海を往来する舟にとって藤戸の渡は重要な港であり、さらに海を渡って児島から本土に入るにも便利な位置にある交通の要衝であった。 『撮要録』によれば、藤戸の渡は粒江村(現在の倉敷市粒江)内にあったとされる。後の干拓による新田造成によりその機能を失い、享保17年(1732年)に粒江村の田畑になっているとしている。 現在のところ、その遺構は不明となっている。
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古代〜中世
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中世頃までは現区域の大半が海辺に面していたと推定される。海道・甲岸・入船(以上、現在の萩之茶屋付近)、曳舟(現在の天下茶屋北付近)、今船(現在の天下茶屋1丁目付近)などの旧地名は、海辺に面していた痕跡を伝えていると考えられている。 後奈良天皇は1557年4月、宮中への大鯛献納に対する感謝の意を示す文書を、今宮村に対して出した。区内にある弘治小学校の校名は、文書が出された当時の元号・弘治に由来している。 区の南部の玉出は12世紀以降開発が進められ、中世・近世には生根神社を中心とした環濠集落となっていた。
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古代〜中世
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市内の最も古いとされる遺跡は紀元前2万年頃先土器時代の鷲羽山遺跡で、この当時瀬戸内海は陸地であったと推測されている。1万年前に氷期が終わり海水面が上昇、6000年前までに海になった。なお、中津貝塚、福田貝塚、船元貝塚などといった、学史的に著名な遺跡が多く存在している。 もっとも早く村として形成されたとされるのが吉備路の南に位置する現在の庄地区北部で、この周辺はかつて「吉備の津」と呼ばれ吉備国の海の玄関であったことから、紀元前100年頃の上東遺跡(じょうとういせき)に楯築遺跡(たてつきいせき)や王墓山古墳群、6世紀頃に土器を生産した二子窯跡に加え650年頃に作られた日畑廃寺跡など多くの遺跡が集中している。 現在の倉敷市一帯は3世紀から律令国になるまでは吉備国、飛鳥時代7世紀後半の壬申の乱をきっかけに行われた吉備分割後は旧児島郡に含まれる地区が備前、それ以外は備中になった。備中国の中枢および国府は共に倉敷市の北に隣接し備中国分寺のある総社市に置かれていたと推測され、高梁川を隔てた西に位置する真備地区一帯を拠点としていた吉備国の有力氏族・下道氏(しもつみち)出身の吉備真備が活躍したのは奈良時代8世紀後半頃である。 倉敷地域の倉敷美観地区周辺は吉備の穴海(児島湖と児島湾の原型)と呼ばれた内海に浮かぶ鶴形山と向山によって形成された鶴形島(円亀島、阿智島)を起源とする。8世紀末・平安時代始め頃には既に陸続きになり、周辺は阿智潟と呼ばれる干潟であった。10世紀中頃、藤原純友の乱の後、小野好古が鶴形山に南に城を築き中世まで小野氏が支配したと云われる。倉敷の名前が登場するのは近世になってからであるが、以前より水夫(かこ)の港が現在の船倉町辺りにあったとされる。水夫達は周辺で行われた数々の戦いにかり出され、水軍として活躍したといわれている。ちなみに中世の高梁川河口は現在の水江・船穂町柳井原・船穂町水江付近である。 児島地域は吉備児島(または備前児島)と呼ばれた離島の西側にあたり、『古事記』や『万葉集』等に書かれた古くから海上交通の要衝であったためヤマト王権の時代に屯倉が置かれた。奈良時代に建立された熊野十二社権現の寺社地や通生荘(かよおのしょう)の荘園等が存在し、本州と四国を結ぶ中継地として機能していた。藤原純友の乱・源平合戦藤戸の戦い・南北朝の戦い等に関わり戦国時代には政治軍事上の要地として豪族の争奪戦が行われるなど、度々戦乱の舞台にもなった。『太平記』に登場する児島高徳は当地の出身であるとする説がある。 玉島地域の平野は江戸時代初め頃まで七島・柏島・乙島(おとしま)等の島々に囲まれた甕ノ海(もたいのうみ)という内海であった。八島から道口一帯は甕ノ泊(もたいのとまり)といわれた天然の良港で中世から備中国の海の玄関になり、古墳時代~室町時代に陶(すえ)から亀山周辺で生産された須恵器(亀山焼)という甕(かめ)等の土器を出荷していた。また、玉島旧市街地周辺の海は万葉集で"玉の浦”と読まれ、場所は源平合戦・水島の戦いで舞台になった乙島と柏島から北に位置する七島に囲まれた一帯と推測される。 和名類聚抄(平安時代の辞書)によると7世紀の律令制によって定められた現在の倉敷市内にあたる行政区域は大まかに次の通りとされる。 備中国窪屋郡 - 阿智郷(阿知、万寿、帯江)、大市郷(大内、川入、酒津、水江)、美簀郷(祐安、西岡、浅原) 都宇郡 - 深井郷(二子、松島、上東、山地)、駅家郷(矢部、日畑) 下道郡 - 河辺郷(川辺)、曾能郷(岡田、市場)、八田郷(箭田)、邇磨郷(二万)、呉妹郷(妹)、穂北郷(陶)、秦原郷(辻田) 浅口郡 - 間人郷(柏島、乙島、黒崎)、船穂郷(船穂)、阿智郷(西阿知) 備前国児島郡 - 児島郷(林、木見、串田、曾原、福江)、都羅郷(連島、福田、下津井、ほか)※連島は備中国浅口郡へ移管 ※括弧内は近辺と推定される現在の地名
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古代 〜 中世(井尻野分岐)
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「高梁川」の記事における「古代 〜 中世(井尻野分岐)」の解説
古代、高梁川は総社平野(吉備平野)へ突入する部位(現在の総社市井尻野湛井あたり)で南と東へ分岐していた。 東流は、分岐点からやや南東に流身をとりつつ現在の総社市街・吉備平野を蛇行しながら東方へ流れ、やがて当時の足守川と現在の総社市長良付近で合流し、その後南へ進路を変え、吉備中山西部を北から南へ流走し、岡山市北区撫川・倉敷市上東付近が河口で、吉備穴海に流入していた。この河口付近に備中国の国府津があったとされ、上道遺跡はそれに関連している遺跡だとする説もある。 備中国風土記逸文である「宮瀬川」によると、賀陽郡の伊勢御神社(いせのみかみのやしろ)の東に河があり、河の西に吉備建日子命宮(きびたけひこのみことのみや)があるので、この河を宮瀬川と称した、とある。この逸文が宮瀬川(高梁川旧東流)の河道の存在を暗示している。この旧東流の河道は、古代行政区をわける「郡境の河道」であったとされ、河道の北側が賀陽郡、南側が窪屋郡・都宇郡であった。 その後、平安時代末期の妹尾太郎兼康による十二箇郷用水建設により、総社中心部では同用水の基幹用水路・総社東部では前川の一部・岡山市北区高松付近では西方に河道が移動し、現在の足守川の中下流となった。 また、総社市井尻野から南に分流した流路(現在の高梁川の流路)は現在の流路に近い位置を蛇行しながら、分岐・合流をしつつ現在の倉敷市真備町川辺あたりで小田川と合流、総社市清音古地あたりが河口だった。この南分流の河道は、当時の下道郡・賀陽郡・窪屋郡の郡境となっていた。度々洪水を起こしたため、河道や分流などが変遷しそれに合わせ郡境も変更されていた。
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