古代〜中世とは? わかりやすく解説

古代〜中世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 02:29 UTC 版)

藤戸」の記事における「古代〜中世」の解説

古代〜中世の藤戸の渡は、別名を藤戸の泊(ふじとのとまり)や児島の泊(こじまのとまり)、児島の渡(こじまのわたし、こじまのわたり)ともいわれ、瀬戸内海航行する船の停泊対岸への渡し船を行う港があった。児島本土から切離されていた頃は、瀬戸内海往来する舟にとって藤戸の渡重要な港であり、さらに海を渡って児島から本土に入るにも便利な位置にある交通の要衝であった。 『撮要録』によれば藤戸の渡粒江村現在の倉敷市粒江)内にあったとされる。後の干拓による新田造成によりその機能失い享保17年1732年)に粒江村田畑になっているとしている。 現在のところ、その遺構不明となっている。

※この「古代〜中世」の解説は、「藤戸」の解説の一部です。
「古代〜中世」を含む「藤戸」の記事については、「藤戸」の概要を参照ください。


古代〜中世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 13:52 UTC 版)

西成区」の記事における「古代〜中世」の解説

中世頃までは現区域大半海辺面していたと推定される海道・甲岸・入船(以上、現在の萩之茶屋付近)、曳舟現在の天下茶屋北付近)、今船現在の天下茶屋1丁目付近)などの旧地名は、海辺面していた痕跡伝えていると考えられている。 後奈良天皇1557年4月宮中への大鯛献納対す感謝の意を示す文書を、今宮村に対して出した区内にある弘治小学校校名は、文書出され当時元号弘治由来している。 区の南部玉出12世紀以降開発進められ中世近世には生根神社中心とした環濠集落となっていた。

※この「古代〜中世」の解説は、「西成区」の解説の一部です。
「古代〜中世」を含む「西成区」の記事については、「西成区」の概要を参照ください。


古代〜中世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:11 UTC 版)

倉敷市」の記事における「古代〜中世」の解説

市内の最も古いとされる遺跡紀元前2万年頃先土器時代鷲羽山遺跡で、この当時瀬戸内海陸地であった推測されている。1万年前に氷期終わり海水面上昇6000年前までに海になった。なお、中津貝塚福田貝塚船元貝塚などといった、学史的に著名な遺跡多く存在している。 もっとも早くとして形成されとされるのが吉備路の南に位置する現在の庄地区北部で、この周辺はかつて「吉備の津」と呼ばれ吉備国の海の玄関であったことから、紀元前100年頃の上遺跡じょうとういせき)に楯築遺跡たてつきいせき)や王墓山古墳群、6世紀頃に土器生産した二子窯跡加え650年頃作られ日畑廃寺跡など多く遺跡集中している。 現在の倉敷市一帯3世紀から律令国になるまでは吉備国飛鳥時代7世紀後半壬申の乱きっかけ行われた吉備分割後は旧児島郡含まれる地区備前それ以外備中になった備中国中枢および国府は共に倉敷市の北に隣接し備中国分寺のある総社市置かれていたと推測され高梁川隔てた西に位置する真備地区一帯拠点としていた吉備国の有力氏族下道氏(しもつみち)出身吉備真備活躍したのは奈良時代8世紀後半頃である。 倉敷地域倉敷美観地区周辺吉備の穴海(児島湖児島湾原型)と呼ばれた内海に浮かぶ鶴形山向山によって形成され鶴形島(円亀島、阿智島)を起源とする。8世紀末・平安時代始め頃には既に陸続きになり、周辺は阿智潟と呼ばれる干潟であった10世紀中頃藤原純友の乱の後、小野好古鶴形山に南に城を築き中世まで小野氏支配したと云われる。倉敷の名前が登場するのは近世になってからであるが、以前より水夫(かこ)の港が現在の船倉町辺りにあったとされる水夫達は周辺行われた数々戦いにかり出され水軍として活躍したといわれている。ちなみに中世高梁川河口現在の水江船穂町柳井原船穂町水江付近である。 児島地域吉備児島(または備前児島)と呼ばれた離島西側にあたり『古事記』『万葉集』等に書かれ古くから海上交通要衝であったためヤマト王権時代屯倉置かれた。奈良時代建立され熊野十二社権現寺社地通生荘(かよおのしょう)の荘園等が存在し本州四国を結ぶ中継地として機能していた。藤原純友の乱源平合戦藤戸の戦い南北朝戦い等に関わり戦国時代には政治軍事上の要地として豪族争奪戦が行われるなど、度々戦乱の舞台にもなった。『太平記』登場する児島高徳当地出身であるとする説がある。 玉島地域平野江戸時代初め頃まで七島柏島乙島おとしま)等の島々囲まれた甕ノ海(もたいのうみ)という内海であった八島から道口一帯は甕ノ泊(もたいのとまり)といわれた天然良港中世から備中国の海の玄関になり、古墳時代室町時代に陶(すえ)から亀山周辺生産され須恵器亀山焼)という甕(かめ)等の土器出荷していた。また、玉島旧市街地周辺の海は万葉集で"玉の浦”と読まれ、場所は源平合戦水島の戦い舞台になった乙島柏島から北に位置する七島囲まれ一帯推測される和名類聚抄平安時代辞書)によると7世紀律令制によって定められ現在の倉敷市内にあたる行政区域大まかに次の通りとされる備中国窪屋郡 - 阿智郷(阿知万寿帯江)、大市郷(大内川入酒津水江)、美簀郷(祐安西岡浅原都宇郡 - 深井郷(二子松島上東山地)、駅家郷(矢部日畑下道郡 - 河辺郷(川辺)、曾能郷岡田市場)、八田郷(箭田)、邇磨郷(二)、呉妹郷(妹)、穂北郷(陶)、秦原郷辻田浅口郡 - 間人郷(柏島乙島黒崎)、船穂郷(船穂)、阿智郷(西阿知備前国児島郡 - 児島郷(木見串田曾原福江)、都羅郷(連島福田下津井、ほか)※連島備中国浅口郡移管括弧内は近辺推定される現在の地名

※この「古代〜中世」の解説は、「倉敷市」の解説の一部です。
「古代〜中世」を含む「倉敷市」の記事については、「倉敷市」の概要を参照ください。


古代 〜 中世(井尻野分岐)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/28 09:42 UTC 版)

高梁川」の記事における「古代 〜 中世(井尻野分岐)」の解説

古代高梁川総社平野吉備平野)へ突入する部位現在の総社市井尻野湛井あたり)で南と東へ分岐していた。 東流は、分岐点からやや南東に流身をとりつつ現在の総社市街・吉備平野蛇行しながら東方流れ、やがて当時足守川現在の総社市長良付近合流しその後南へ進路変え吉備中山西部を北から南へ流走し、岡山市北区撫川倉敷市上東付近河口で、吉備穴海に流入していた。この河口付近備中国国府津があったとされ、上道遺跡はそれに関連している遺跡だとする説もある。 備中国風土記逸文である「宮瀬川」によると、賀陽郡伊勢御神社(いせのみかみのやしろ)の東に河があり、河の西に吉備建日命宮(きびたけひこのみことのみや)があるので、この河を宮瀬川称した、とある。この逸文宮瀬川高梁川旧東流)の河道存在暗示している。この旧東流の河道は、古代行政区をわける「郡境の河道であったとされ、河道北側賀陽郡南側窪屋郡都宇郡であったその後平安時代末期妹尾太郎兼康による十二箇郷用水建設により、総社中心部では同用水基幹用水路総社東部では前川一部岡山市北区高松付近では西方河道移動し現在の足守川中下となったまた、総社市井尻野から南に分流した流路現在の高梁川流路)は現在の流路に近い位置蛇行しながら、分岐合流をしつつ現在の倉敷市真備町川辺あたりで小田川合流総社市清音古地あたりが河口だった。この南分流の河道は、当時下道郡賀陽郡窪屋郡の郡境となっていた。度々洪水起こしたため、河道分流などが変遷しそれに合わせ郡境も変更されていた。

※この「古代 〜 中世(井尻野分岐)」の解説は、「高梁川」の解説の一部です。
「古代 〜 中世(井尻野分岐)」を含む「高梁川」の記事については、「高梁川」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「古代〜中世」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「古代〜中世」の関連用語

古代〜中世のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



古代〜中世のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの藤戸 (改訂履歴)、西成区 (改訂履歴)、倉敷市 (改訂履歴)、高梁川 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS