木見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/05/31 07:12 UTC 版)
木見(きみ、こみ)
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木見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 19:46 UTC 版)
明治前期までは児島郡木見村であった。西に林、南に尾原、東に由加(琴浦)と迫川(岡山市南区灘崎)、北に彦崎(同)と接する。また、木谷は蟻峰山、西に福南山やタコラ山などの山地に囲まれる。 江戸以前は、喜美の表記も併用されていたようで、清田八幡神社の元和元年の上葺再興棟札には喜美村とある。 『備前記』には古くは七堂伽藍を備えた称光寺(諸興寺)という寺院があったする。また、木見は児島高徳の出生地で、墓所であるという説がある。 北部の寺内集落には、後鳥羽上皇の皇子である頼仁親王の墓と伝えられる五輪塔がある。『備陽国誌』によれば、承久の乱ののち、児島へ移送され、五流尊瀧院にたどりつき、そこで没し、諸興寺に葬られたと伝わる。 江戸時代、『正保郷帳』では石高は681石余りとし、また枝村として畑村を記している。『備陽記』に、享保6年の記録として田畑48町1反余り、池7ヶ所、家数131軒、人口774人としている。また明和5年の『御用留覚帳(木裏文書)』には、家数152軒、前年の出生は29人(うち男18人、女11人)、藍瓶10本とある。さらに四国遍路に6月28日に出、8月9日頃に帰村、また伊勢参宮に7月15日に出、8月1日に帰村の願上があり、池川普請を秋に行ったとの記録がある。 文化年間の『岡山藩領手鑑』では、木見村は池田和泉の給地であったとし、石高681石余り、直高1097石余り、田36町7反余り、畑10町9反余り、池9ヶ所、樋16ヶ所、井戸6ヶ所、石橋・土橋各1ヶ所、家数165軒、人口814人、寺1院(住心院)、牛71頭、馬2頭、猟師3人、紺屋6軒(藍瓶6本)とある。 幕末に後述の尾原とともに小倉織が展開され、明治初期には喜美村内で小倉織・真田織の職人が40人いることが『郷内資料』に記されている。また『諸御用留帳』には、平十郎・隆五郎なる小倉商人が伊賀・大坂売を行い、年商500両から1000両の売り上げをあげるなどし、隆盛を極めた。 昭和後期頃から、西部の平野部や山麓部を中心に新興住宅地が増え、人口が増加。さらに昭和63年には、瀬戸大橋開通が開通に伴い、JR西日本本四備讃線が営業開始し、当地西部を南北に路線が通過し、木見駅が開業した。
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