加藤氏
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「小諸藩牧野氏の家臣団」の記事における「加藤氏」の解説
室町時代以来の古参家臣・加藤孫蔵惣領家。与板立藩時から家老の家柄を連綿。小諸入封後に末期養子と祇園祭りでの不祥事により、2度に渡り持高減石・格式降格。一時期家老の家柄を外れるも8代〜9代藩主治世期の功労により格式をほぼ回復。 小諸家臣加藤氏の家系図、由緒書は、詳細なものが藩庁に提出されていたものとみられるが、ほとんどが散逸されているとみられ、公開されている古文書・目録等には、簡約なものしか収載がないうえ、小諸藩文書などにも、記述量が少ない。ほかの四天王家と比較して、その家史を探る手がかりとなる史料が乏しい。 室町・戦国期に、三河国宝飯郡(愛知県豊川市及びその周辺)に勢力を持った『牛久保六騎(牧野・真木・岩瀬・能勢・稲垣・山本)・地侍十七人衆』の一つに数えられた加藤氏の末裔であると考えられる。地侍十七人衆のメンバーについては、諸説があるが、加藤氏がこのメンバーであったことは疑いがない。当家は室町・戦国期に藩主牧野氏の先祖が、牛久保城主であった時代から仕えていた古参の家臣・加藤孫蔵の惣領家である。元和年間の家臣団名簿である「大胡ヨリ長峰御引越御人数帳」にもその名(加藤孫蔵)が見える。長岡藩中老・年寄役以上に列するには不足があったが、加藤孫蔵は牧野康成が与板に立藩するにあたって、支藩家老として添えられた。 明暦3年(1657年)長岡城から与板陣屋に移転するにあたって、加藤三郎右衛門は、御引っ越し万事を取り仕切ったほか、元禄15年(1702年)に藩主が与板陣屋から、小諸城主に栄典したときにも、家臣筆頭役であった。 小諸藩主牧野氏の家老である真木氏、稲垣氏は、牧野家中(かちゅう)の重鎮ではあるが、小諸家臣となった家系は惣領家ではない。これに対して、加藤氏は、藩主牧野氏の先祖が牛久保在城期からの惣領家であるほか、与板立藩以来の家老連綿の家柄である。しかし小諸入封後に末期養子となり、他藩から近親者を迎えたことで、家柄・格式を大きく下げた。一時、家臣筆頭を勤める家柄を取りあげられたとみられる。江戸武艦によると江戸家老に就任する例が多く、家老本職に就任すると、通称を孫蔵から六郎兵衛に改称しているが、小諸藩文書によると、必ずしもこうした傾向はみられない。 すなわち小諸入封の翌年にあたる元禄16年、家禄380石、その後、段々と加増され、最高時420石となるも、末期養子となり、失脚。この時代の家禄は、給人地を家禄に換算して組み入れていた数値である。 寛政3年(1791年)から5年まで加藤六郎兵衛成昭は、在所にあって家老・家臣筆頭として、藩政の立て直しをはかったとみられるが、体調悪化により退役。末期養子で格式を下げていた加藤氏が家臣筆頭となったとき、他の有力諸士2家が持高を下げていたので、加藤氏は相対的な理由で家臣筆頭になってもおかしくはない位置にあったといえる。 加藤六郎兵衛成昭の立て直しを引き継いだ家老・牧野八郎左衛門載成によって、失政が行われた。 寛政5年(1793年)から、文政7年(1824年)まで加藤氏の当主であったとみられる加藤三(郎)左衛門成高は、家老に次ぐ用人・加判まで進んだが、小諸城下の祇園祭りで不祥事(乱行・狼藉)をおこしたため罷免。持高減石・格式降格・謹慎を伴う引責による強制隠居となったので、家老職に就任することなく終わった。ただし、閉門となったとする記録はない。加藤三(郎)左衛門墓地の碑文には、加藤三左衛門とあるが古文書類には加藤三郎左衛門との記述もある。小諸惣士草高割成立時の持高174石。 加藤六郎兵衛成徳分限には古高(旧持高)170石であったとの記述があるが、加藤氏持高の推移は、次の通りである(標記の変更後によるもの)。 まず末期養子で格式を下げ持高が227石(あるいは230石)から170石に減石。加藤成徳祖父である成昭の持高は170石であったが、その後、4石加増で174石。加藤成高がおこした祇園祭りでの不祥事によって持高減石・格式降格となり持高130石となった。この事件で家老の家柄を取りあげられ、用人の家柄に格式降格された。 加藤六郎兵衛成徳(孫蔵)は、文化7年(1810年)召出され、刀番や寺社奉行・町奉行見習いを勤めた。文政3年用人職であった加藤三郎左衛門成高から家督を相続して、奏者(持高130石)となった。時に用人の家柄となっていたが、その後、班を進めて、文政4年、番頭、文政8年9月 用人見習・加判 江戸に引越。同年11月、江戸詰用人本職、文政10年1月 家老見習(江戸詰)。丑年56石加増で226石4斗、役高加増分23石をもって計249石4斗となった。文政11年8月家老本職。弘化3年(1846年)、持高30石加増、家臣筆頭、城代家老となった。ここに加藤六郎兵衛成徳は、父祖等がなした2度に渡る失態を1代で取り戻した。 この時代の分限は2種類のものが現存し、記述内容はほぼ同じであるが、持高227石としているものと、持高200石としているものがある。また本人に対して江戸家老と、在所家老(城代家老)のいずれを希望するかを聴取され、それに回答している書状が現存している。 幕末・維新期の小諸騒動では、家臣筆頭・家老加藤六郎兵衛成徳から家督を相続した加藤六郎兵衛成美は、父と同じく家臣筆頭(城代)になった。幕末におきた小諸騒動では、成美の取計向き不行届きのため不審な疑いが持たれて、100石の持高減石・家老職取りあげ・他藩文通禁止、閉門となり、城代屋敷(城下屋敷とするは誤り)から放逐され、廃屋のような城下の武家屋敷に押し込まれた。しかし、この懲戒処分は、本藩である長岡藩の調停により、後に取り消された。 加藤六郎兵衛成美は、一方の旗頭となり、牧野八郎左衛門成道、真木要人則道等を、朝敵となった長岡藩脱走兵を匿ったことを口実に処刑し、家臣筆頭として、小諸家中(かちゅう)が一丸となって改革を推し進めようとして、謹慎・閉門中の家臣を除く、在所の家臣を召集して城中の神前で誓いをたてた。小諸市誌によると、加藤は、自派の人物・腹心だけを抜擢したような解説となっているが、国立公文書館の太政官・公文禄などによると、反対派の人物もまもなく、登用して人事にも腐心をした形跡がみられる。 しかし、自分の腹心の徒たちを重臣に大抜擢しただけでなく、権勢をふるわせ中間派・穏健派を敵にまわして、専横が極まり、牧野・真木等の処刑に無理があったため、藩内の反発が強まり、改革に失敗して失脚した。加藤・牧野求馬派の所業を、神戸最仲によって、新政府刑法官に訴願されたのが、直接の原因であった。神戸最仲は、牧野八郎左衛門・太田宇忠太等に対して、批判的であった言動を記述した文献(河井継之助伝ほか)が残っているため4名の斬首執行前は、加藤・牧野求馬派に近かったとみられる。 加藤・牧野求馬派の立場から見れば、当然に、神戸最仲は、裏切り者・讒言者であった。 加藤六郎兵衛成美は、明治2年9月、笠間藩お預けで永禁固となったが、翌年には身柄を小諸藩に引き渡された。廃藩置県前に、永禁固とされながら、出獄が許されて、士分上禄格式が認められ、小諸で余生を過ごした後に没した。加藤六郎兵衛成美は、永禁固となり、獄死したとするは誤りである。 加藤六郎兵衛成美の惣領・跡取りに関する記述は、江戸時代の小諸藩一次史料には存在しないが、女子が小諸家臣に嫁している具体的な記述が現存。ほかに、加藤六郎兵衛成美の男子・惣領とみられる姓名が、明治3年〜4年ごろの小諸藩の一次史料に見て取れるが、加藤六郎兵衛成美は、入牢時に隠居していないため、入牢時にその惣領は、登城を認められる年齢以下であった可能性がある。 また幕末近くに、加藤六郎兵衛成徳の庶子で、別家召し出し・新恩給付となった加藤錬之助(加藤高成高)は、小諸藩校明倫堂の司成(頭取)に抜擢され、公議人(小諸藩選出の国会議員)を勤めて小諸騒動では、謹慎以上の処分は受けずに士分下禄に列した。明治3年後半から4年初めごろに隠居して家督を加藤高景高に相続させた(持高50石・給人格)。
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加藤氏
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天正11年(1583年)、羽柴秀吉が賤ヶ岳の戦いにおいて勝利した後、高島郡の一部が秀吉の直轄領になると、加藤光泰を大溝城主に就かせた。
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