ヴァン・ウォールとは? わかりやすく解説

ヴァンウォール

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/13 06:08 UTC 版)

ヴァンウォール
エントリー名
  • G.A. ヴァンダーヴェル (1951, 1954)
  • ヴァンダーヴェル・プロダクツ・リミテッド (1955 - 1960)
チーム国籍 イギリス
チーム本拠地 イギリス イングランドロンドン アクトン
チーム創設者 トニー・ヴァンダーヴェル
主なチーム関係者
主なドライバー
F1世界選手権におけるチーム履歴
参戦年度 1951, 1954 - 1960
出走回数
  • チームとして:
    31 (30スタート)
  • コンストラクターとして:
    29 (28スタート)
コンストラクターズ
タイトル
1 (1958)
ドライバーズ
タイトル
0
優勝回数 9
通算獲得ポイント 57
表彰台(3位以内)回数 13
ポールポジション 7
ファステストラップ 6
F1デビュー戦
初勝利 1957年イギリスGP
最終レース 1960年フランスGP
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ヴァンウォール
(エンジンサプライヤーとしての記録)
参戦年度 1954 - 1960
F1デビュー戦 1954年イギリスGP
初勝利 1957年イギリスGP
最後の勝利 1958年モロッコGP
最後のレース 1960年フランスGP
出走回数 29 (28スタート)
搭載チーム ヴァンウォール
コンストラクターズ
タイトル
1 (1958)
ドライバーズ
タイトル
0
優勝回数 9
表彰台(3位以内)回数 13
通算獲得ポイント 57
ポールポジション 7
ファステストラップ 6
テンプレートを表示

ヴァンウォールVandervell Products Ltd.)は、かつてF1に参戦していたコンストラクター。1958年に制定されたコンストラクターズ・チャンピオンシップの初代獲得者である。ヴァンウォールという名称は、母体であるヴァンダーヴェル社とその商標「シンウォール」を組み合わせて命名された。

沿革

参戦の理由

ヴァンダーヴェル社の創業者トニー・ヴァンダーヴェルは、アメリカ人技術者が開発したベアリングを「シンウォール(Thinwall:「薄い壁」)」と名付け、イギリス国内で特許を取得した。この技術は内燃機関の高回転化に貢献し、第二次世界大戦中の戦闘機のエンジンなどに使われ、ヴァンダーベル社の事業を成功させた。

レース愛好家であるヴァンダーヴェルは、フェラーリの市販スポーツカーの顧客としてエンツォ・フェラーリと交際していた。また、スクーデリア・フェラーリのF1マシン、フェラーリ・375F1を譲り受け、「シンウォール・スペシャル」と名付けて1951年のF1世界選手権や国内レースに出走させていた。フェラーリ初の自製エンジン、ティーポ125にシンウォール・ベアリングが使われるなど、両者の関係は親密なものであった。

ところが、その関係にひびが入る。ある日、ヴァンダーヴェルは購入車の故障のクレームを言いにフェラーリの本拠地モデナを訪れたが、多忙を理由に3時間半も待ちぼうけを食わされた。ヴァンダーヴェルはエンツォのあしらいに立腹し、レースで見返すことを決意する。後援していたBRMのプロジェクトが難航していたこともあり、自らコンストラクターを設立してF1に参戦することとなった。

ちなみに、フェラーリへの不満が動機という点では、後のランボルギーニのスポーツカー開発も同類である(この有名なランボルギーニとのエピソードについては、後年作り話だったことが判明。そういう事実は一切無かったとのこと)。エンツォは顧客をぞんざいに扱う性癖があり、その不遜さが幾つもの因縁を生み出している。

英国勢の旗手

クーパーシャシーノートンのオートバイエンジンを改造した直4エンジンを搭載したヴァンウォールのF1マシンは、1954年の地元イギリスGPでデビューした。翌1955年まで成功を収められず、マイナーフォーミュラの新興コンストラクターロータス・エンジニアリングにシャシー製作を依頼。コーリン・チャップマン[注 1]らの手掛けたマシンは徐々に戦闘力を上げ、1956年のノンタイトルレースで初勝利を挙げた。

1957年には、スターリング・モス(第2戦から加入)、トニー・ブルックススチュアート・ルイス=エヴァンズら母国のスタードライバーを揃え、フェラーリやマセラティといったイタリア勢を脅かす存在となる。チームとして、また英国車としての初勝利は第5戦の地元イギリスGPで、当時の規則では1台のマシンを乗り継ぐことが許されていた[注 2]ため、モスとブルックスの手により果たされた。モスはペスカーラGPイタリアGPでも連勝し、フェラーリの地元で鼻を明かすことに成功した。

栄光と悲劇

1958年も強力なラインナップを保ち、フェラーリを圧倒する快進撃を見せる。モスが第3戦オランダGP、第9戦ポルトガルGP、最終戦モロッコGPで勝ち、ブルックスが第5戦ベルギーGP、第8戦ドイツGP、第10戦イタリアGPで勝つなど、シリーズ11戦中6勝を挙げる強さで、この年からコンストラクターにも与えられるようになったチャンピオンの栄光を手にした。しかし、勝利が分散した結果、ドライバーズチャンピオンはフェラーリのマイク・ホーソーンに奪われた。この年4勝[注 3]したモスは最速のドライバーでありながら、1勝のホーソーンに有効ポイント上僅か1点差で及ばなかった。

そして、最終戦モロッコGPでは、チームに愛されたルイス=エヴァンズが炎上事故で重傷を負い、後日死亡するという悲劇も起こった。トニー・ヴァンダーベルはフェラーリへの復讐を果たし、医師から体調面で忠告されていたこともあり、このレースをもって本格参戦を中止した。1959年1960年にも各1レース1台ずつ出走したが、すでに戦闘力は失われ、やがてヴァンウォールの名はレース界から消滅した。

チーム発足・参戦から僅か4年で栄光をつかみ、その頂点で実質的に幕を閉じたヴァンウォールの歴史はF1史上でも稀有なものであった。それはまた、クーパー、BRM、ロータスといった英国勢の黄金時代につながる先駆けでもあった。

ブランドの復活

ヴァンウォール・ヴァンダーヴェル 680(2023年のル・マン24時間レース)

2023年にコデワにより、ル・マン・ハイパーカー規定車両のヴァンウォール・ヴァンダーヴェル 680が開発され、ヴァンウォールの名前がレース界に復活した。

F1世界選手権における成績

プライベートチーム時代(1951年)

シャシー エンジン タイヤ ドライバー 1 2 3 4 5 6 7 8 DCP
1951 フェラーリ・375F1
[注 4]
フェラーリ 375
4.5L V12
P SUI 500 BEL FRA GBR GER ITA ESP
レグ・パーネル英語版 4 3
[注 5]
ブライアン・ショウ・テイラー英語版 DNS 0
ピーター・ホワイトヘッド英語版 9 0
出典: [1]

フルワークスチーム時代(1954年 - 1960年)

シャシー エンジン タイヤ ドライバー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 DCP CCP WCC
1954 スペシャル ヴァンウォール 254
2.5L L4
P ARG 500 BEL FRA GBR GER SUI ITA ESP -1 -1
ピーター・コリンズ Ret 7 DNS 0
1955 VW55 ヴァンウォール 254
2.5L L4
P ARG MON 500 BEL NED GBR ITA -1 -1
マイク・ホーソーン Ret Ret 0
ケン・ウォートン 9* Ret 0
ハリー・シェル英語版 9* /
Ret
Ret 0
1956 VW2 ヴァンウォール 254
2.5L L4
P ARG MON 500 BEL FRA GBR GER ITA -1 -1
モーリス・トランティニアン Ret Ret Ret Ret 0
ハリー・シェル英語版 Ret 4 10* /
Ret
Ret Ret 3
マイク・ホーソーン 10* 0
[注 6]
コーリン・チャップマン DNS 0
フロイラン・ゴンザレス Ret 0
ピエロ・タルッフィ Ret 0
1957 VW5 ヴァンウォール 254
2.5L L4
P ARG MON 500 FRA GBR GER PES ITA -1 -1
スターリング・モス Ret 1* /
Ret*
5 1 1 25
トニー・ブルックス 2 1* /
Ret*
9 Ret 7 11
スチュアート・ルイス=エヴァンズ Ret 7 Ret 5 Ret 2
[注 7]
ロイ・サルヴァドーリ英語版 Ret 0
[注 8]
1958 VW5 ヴァンウォール 254
2.5L L4
D ARG MON NED 500 BEL FRA GBR GER POR ITA MOR 48
(57)
1位
スターリング・モス Ret 1 Ret 2 Ret Ret 1 Ret 1 33
[注 9]
トニー・ブルックス Ret Ret 1 Ret 7 1 Ret 1 Ret 24
スチュアート・ルイス=エヴァンズ Ret Ret 3 Ret 4 3 Ret Ret 11
1959 VW59 ヴァンウォール 254
2.5L L4
D MON 500 NED FRA GBR GER POR ITA USA 0 NC
トニー・ブルックス Ret 0
[注 10]
1960 VW11 ヴァンウォール 254
2.5L L4
D ARG MON 500 NED BEL FRA GBR POR ITA USA 0 NC
トニー・ブルックス Ret 0
[注 11]
出典: [2]
追記
  • 太字ポールポジション斜体ファステストラップ。(key
  • * - マシンをシェアしたことを表す。1950年から1957年までは、決勝レース中にマシンを乗り換えることが認められていた。
  • ポイントの数値は有効ポイント、( )内は総獲得ポイント。
  • ^1 - コンストラクタータイトルは1958年から設定された。このためコンストラクターとしてのポイントやランキングは存在しない。

車両ギャラリー

  • プライベートチーム時代(1951年)
  • フルワークスチーム時代(1954年 - 1960年)

脚注

注釈

  1. ^ チャップマン自身も1956年フランスGPに出場し、予選で5位となったが決勝は欠場している。
  2. ^ 分乗は翌1958年に禁止された。
  3. ^ 上述した3勝に加え、アルゼンチンGPロブ・ウォーカー・レーシングチームクーパーを優勝させた。
  4. ^ 別名「シンウォール・スペシャル」
  5. ^ 他車(BRM)で2点を獲得。
  6. ^ 他車(オーウェン・レーシング・オーガニゼーション(BRM)のマセラティ)で3点を獲得。
  7. ^ 他車(コンノート)で3点を獲得。
  8. ^ 他車(クーパー)で2点を獲得。
  9. ^ 他車(ロブ・ウォーカー・レーシングチームのクーパー)で8点を獲得。
  10. ^ 他車(フェラーリ)で27点を獲得。
  11. ^ 他車(ヨーマン・クレジット(BRP)のクーパー)で7点を獲得。

出典

  1. ^ Ferrari 375 tw” (英語). STATS F1. 2025年7月13日閲覧。
  2. ^ Vanwall - Grands Prix started” (英語). STATS F1. 2025年6月26日閲覧。

関連項目

タイトル
先代
n/a
F1コンストラクターズチャンピオン
1958年
次代
クーパー

ヴァン・ウォール

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 01:28 UTC 版)

影が行く」の記事における「ヴァン・ウォール」の解説

首席パイロット隊員たちや氷漬け異星生物基地へ運ぶ。

※この「ヴァン・ウォール」の解説は、「影が行く」の解説の一部です。
「ヴァン・ウォール」を含む「影が行く」の記事については、「影が行く」の概要を参照ください。

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