ユーロブルンとは? わかりやすく解説

ユーロブルン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/17 09:08 UTC 版)

ユーロブルン
活動拠点 イタリア共和国ミラノ県セナーゴ
創設者 ジャンパオロ・パバネロ
ウォルター・ブルン
スタッフ ピエルルイジ・コルバリ
参戦年度 1988年 - 1990年
出走回数 46 (14スタート)
コンストラクターズ
タイトル
0
ドライバーズタイトル 0
優勝回数 0
通算獲得ポイント 0
表彰台(3位以内)回数 0
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
F1デビュー戦 1988年ブラジルGP
初勝利
最終勝利
最終戦 1990年スペインGP
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ユーロブルンEurobrun)は、1988年から1990年までF1世界選手権に参戦していたレーシングチーム。チーム本拠地はイタリアロンバルディア州ミラノ県セナーゴ[1]

歴史

1988年

ララウリのER188(1988年)

1988年に『ユーロブルン・レーシング』設立。チームは1985年までアルファロメオF1チームを運営していたジャンパオロ・パバネロフランス語版率いるユーロレーシングドイツ語版イタリア語版と、ル・マン24時間レースでポルシェを走らせて8回出場経験を持つ元レーシングドライバーウォルター・ブルン率いるブルン・モータースポーツがF1参戦のためにジョイントして設立したもので、チーム名は両者の名前を合わせて付けられた[2]

タイヤはグッドイヤー、エンジンはフォード・コスワース・DFZ V8、マシンはアルファロメオF1で183T184Tおよび185Tまでを設計していたキャリアを持つマリオ・トレンティーノと、ブルーノ・ザーバが設計したER188でデビューし、参戦初年度のドライバーは1987年の国際F3000チャンピオンで同年に最終戦オーストラリアGPブラバムからスポットデビューを果たしたステファノ・モデナと、ブルン・モータースポーツのエースとして活躍し、ヨーロッパF3チャンピオンのオスカー・ララウリを起用した。

メインスポンサーがないままで開発資金に乏しい上、コスワースの市販エンジンを使用するなど戦闘力は高くないものの安定したマシンで、モデナは9回、ララウリは8回決勝進出し、完走7回とまずまずの成績を残した(最高位は11位)。なお終盤の日本GPオーストラリアGPは、メインスポットスポンサーとなった日本のアパレルブランド「M505」のカラーリングで走った。

1989年

ER189(1989年)

2年目の1989年は、タイヤをグッドイヤーから3年振りにF1に復帰したピレリを装着し、エンジンもフォード・コスワースからジャッドに変更した。

ドライバーは、この年にデビューしたグレガー・フォイテクを起用したが、開幕戦を除いて予備予選落ちした。第9戦ドイツGPでようやくニューマシンであるER189が投入され、新たなメインスポンサーとしてリキュールメーカーの「イエーガーマイスター」がついたものの、予備予選通過はままならず、フォイテクは第11戦ベルギーGP終了後に離脱してしまった。

スポーツカー耐久レースに参戦していたララウリを再び起用するとともに、「イエーガーマイスター」もスポンサーから降りてしまったため、新たな日本のスポンサー「アルファ」を獲得したが、結局1度も決勝に上がることも無く最悪の結果に終わってしまった。

1990年

1990年にはコローニから移籍したロベルト・モレノと契約。セカンドシートには国際F3000に参戦していたクラウディオ・ランジェスが持参金持込で加入する。オフの期間には前年F1にデビュー後、足の負傷回復途上のためF1シートを失っていたジョニー・ハーバートにオファーし、モレノとコンビを組ませる構想もあったが、ハーバートが全日本F3000参戦を選択したため実現しなかった[3]。開幕戦でのドライバー体重測定ではモレノが最軽量、ランジェスが最重量という対照的な組み合わせとなった。

モレノは開幕戦アメリカGPの予備予選をトップ通過、決勝でも完走を果たす。序盤戦は予備予選をおおむね通過していたが、中盤戦以降は予備予選落ちが続き、結局決勝進出は2回にとどまる。ランジェスは開幕から14戦連続予備予選落ちという惨憺たる結果に終わる。ランジェスの予備予選タイムの遅さを見たチーム首脳陣は5月から交代を模索し、ウィリアムズのテストを担当していたマーク・ブランデルや、スポンサー資金を持つブラジリアンマルコ・グレコと交渉していたが、グレコにはスーパーライセンスの発行が認められず、ブランデルは日産ワークスのル・マン24時間レースプロジェクトへの参加が決まったため、仕方が無くランジェスを継続していたという状況であった[4]

また運営資金枯渇がいよいよ深刻化し、ついにはヨーロッパ外への遠征となるシーズン終盤2戦(日本GPオーストラリアGP)への渡航費用が捻出できなくなり、チームはF1への継続参戦を断念。そのままチームは消滅した。

なお、モレノはこのチーム消滅によりシートを失うものの、時を同じくしてベネトンアレッサンドロ・ナニーニヘリコプターの墜落事故で右腕を切断するというアクシデントが発生。モレノはナニーニの後釜として急遽ベネトン入りし、日本GPでネルソン・ピケと1-2フィニッシュを達成している。

マシン

  • ER188
    • ER188B
  • ER189
    • ER189B

供給していたエンジン

在籍ドライバー

F1における全成績

(key) (太字ポールポジション

シャシー エンジン タイヤ ドライバー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 ポイント 順位
1988年 ユーロブルン・ER188 コスワース・DFZ V8 G BRA
SMR
MON
MEX
CAN
DET
FRA
GBR
GER
HUN
BEL
ITA
POR
ESP
JPN
AUS
0 NC
オスカー・ララウリ Ret DNQ Ret 13 Ret Ret Ret DNQ 16 DNQ DNPQ DNPQ DNPQ DNQ DNQ Ret
ステファノ・モデナ Ret NC DSQ DSQ 12 Ret 14 12 Ret 11 DNQ DNQ DNQ 13 DNQ Ret
1989年 ユーロブルン・ER188B ジャッド・CV V8 P BRA
SMR
MON
MEX
USA
CAN
FRA
GBR
GER
HUN
BEL
ITA
POR
ESP
JPN
AUS
0 NC
グレガー・フォイテク DNQ DNPQ DNPQ DNPQ DNPQ DNPQ DNPQ DNPQ DNPQ
ユーロブルン・ER189 ジャッド・CV V8 P グレガー・フォイテク DNPQ DNPQ
オスカー・ララウリ DNPQ DNPQ DNPQ DNPQ DNPQ
1990年 ユーロブルン・ER189B ジャッド・CV V8 P USA
BRA
SMR
MON
CAN
MEX
FRA
GBR
GER
HUN
BEL
ITA
POR
ESP
JPN
AUS
0 NC
ロベルト・モレノ 13 DNPQ Ret DNQ DNQ DSQ DNPQ DNPQ DNPQ DNPQ DNPQ DNPQ DNPQ DNPQ
クラウディオ・ランジェス DNPQ DNPQ DNPQ DNPQ DNPQ DNPQ DNPQ DNPQ DNPQ DNPQ DNPQ DNPQ DNPQ DNPQ

関連項目

脚注

  1. ^ Euro Brun Racing 1990F1日本グランプリ公式プログラム 70頁 株式会社鈴鹿サーキットランド 1990年10月発行
  2. ^ Euro Brun Racing 1988F1日本グランプリ公式プログラム 53頁 株式会社鈴鹿サーキットランド 1988年10月発行
  3. ^ F1に残ったハーバート、ロータスとテスト契約 コローニとユーロブルンには断り グランプリ・エクスプレス '90開幕直前号 6頁 1990年3月10日発行
  4. ^ ユーロブルンドライバー交代か グランプリ・エクスプレス カナダGP号 30頁 1990年6月30日発行

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