レキシコン・ティルツール交差点
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 08:51 UTC 版)
「中国農場の戦い」の記事における「レキシコン・ティルツール交差点」の解説
空挺部隊員が渡河準備を行う中、レシェフ(英語版)はエジプト軍歩兵部隊がアカビシュを、自らの通過後ほどなくして再び封鎖したと知らされた。彼は1個機甲大隊を道路確保のために派遣し、残りの3個機甲大隊と3個機械化大隊は北方への行軍、そしてティルツールと中国農場の占拠に充てた。 アブデル・ハミドのエジプト軍第16旅団で右側面を構成していた1個歩兵大隊が、レキシコン・ティルツール交差点を防衛する位置にいた。当初、レシェフは2個機甲大隊をレキシコン沿いに北へ派遣した。イスラエル軍の戦車群が歩兵大隊に接近すると、対戦車兵器による激しい攻撃に遭遇した。この交戦で27輌の戦車を失ったもの、7輌のイスラエル軍戦車がレキシコン上で大隊陣地の最西端を突破しおおせて、アル・ガラアへと北進した。それに応じて、アブデル・ハミドは戦車追跡のための分隊を――RPG-7携帯ロケット弾やRPG-43手榴弾で武装した10名からなる各集団であった――アル・ガラア周辺に展開し、突破した戦車群を撃破するよう命じた。また、歩兵大隊を補強するために1個戦車中隊を派遣した。 夜半に、レシェフは配下の残余部隊とともに運河の岸辺に沿って北へ移動した。第16旅団の陣地を迂回し、イスラエル軍はほどなくして、大規模な管理区域と車輛留めの只中にいることに気づいた。レシェフの旅団は、エジプト軍第16師団と第21師団の司令・補給拠点に入り込んでいた。イスラエル軍の攻撃は、防衛が最も弱かった南方からではなく、最大限に強固であった東方から行われると見込まれており、それに対して最も安全との見立ての下で、当拠点は運河の近くに置かれていた。両陣営が直ちに発砲を開始し、はずみで補給用トラックや対空ミサイル発射装置の破壊に繋がった。エジプト軍は第21師団の傘下部隊からなる反撃を何とか組織した。第14旅団の1個大隊と第18旅団の1個大隊(1個中隊を欠いていた)であった。戦車群がイスラエル軍を撃退し、そちらの方は大きく規模で上回った対手の部隊から重大な損害を被った。 エジプト軍第16歩兵師団の指揮を執るハフェズ准将は、第18機械化旅団から当編成の一部であった戦車大隊を当師団の予備兵力に充てるため外しつつ、第16歩兵旅団のすぐ背後で中国農場の北側の防衛線を占めさせて、南方からのイスラエル軍の攻撃を封じ込める計画を考案した。第1機甲旅団はラテラル道路と運河の間で、第18旅団の右側面に位置を占めるべく、南方へ移動した。旅団が到着すると、アル・ガラアにおいてレシェフの旅団配下のイスラエル軍機甲部隊と交戦した。エジプト軍機甲部隊は、15輌の戦車と数台のハーフトラックを撃破した。13時頃、エジプト軍のSu-7戦闘爆撃機群が出撃し、アル・ガラア村落上空での地上攻撃作戦で多数のイスラエル軍戦車を撃破した。第1旅団は14時に、戦車1個大隊をもって側面を衝こうとする左翼側への試みを迎え撃ち、攻撃を遮って10輌の戦車を撃破した。10月16日の交戦の間に、エジプト軍第21師団はイスラエル軍の頻繁な航空攻撃や砲撃弾幕に晒されながら、50輌以上のイスラエル軍戦車・装甲車両の撃破に成功した。第1旅団は戦果のほとんどを記録し、一方で損失はより些少であった。 一方でレシェフ配下の各機械化大隊の中で、ナタン・シュナリ少佐に指揮される1隊が、中隊規模となっていた第40戦車大隊の残存戦力で、それまでの大隊指揮官の負傷後にギデオン・ギラディ大尉が指揮を執っていた部隊を増強した。シュナリはレキシコン・ティルツール交差点を占拠するよう命令された。彼はその戦車中隊を先行で送り出し、そちらの方は当初、エジプト軍部隊の姿なしと報告してきた。シュナリは6台のハーフトラックに搭乗した歩兵部隊を派遣した。到着した彼らは、戦車中隊が既に撃破されており、ギラディが戦死したことを知った。すぐに車両群は、前進を止める激しい砲火に見舞われた。部隊指揮官が死傷者発生を報告し、シュナリは配下の大隊の残存部分へ、動きが取れなくなっている味方を援護するよう命じた。歩兵部隊を救出する試みは失敗し、交差点を防衛するエジプト軍大隊は旅団の砲兵隊の支援を受けて、当地域に大規模な火力を向けた。エジプト軍守備隊は、準備を整えていた「殲滅地帯」においてイスラエル軍を捉えることに成功したのであった。配下の部隊が援護を欠いて殲滅される危機に晒され、シュナリは配下の兵力の一部を再編成し、車両に乗って当地域からの退避に成功したが、最初に交差点へ送り込まれた歩兵部隊のハーフトラックは釘づけのままであった。 レシェフは歩兵救出のため、新たな戦車中隊を送り出した。戦車群は南方から中国農場へと進んでいった。農場と村落に近づくと、対戦車兵器と砲撃が降り注いで中隊に後退を余儀なくさせた。ナタン・シュナリはレシェフに追加の支援を派遣するよう要請を続けたが、相手がエジプト軍第16・第21師団の管理区域に入り込み、優勢なエジプト軍部隊に直面していることは知らなかった。支援が到来せず、部隊指揮官は重機関銃を装備した2分隊に部隊を援護する任務を与えて、配下に負傷者を運ばせ、戦場からの離脱を試みた。イスラエル軍がゆっくりと自らの戦線へ戻るところを、エジプト軍戦車の一群が遮断し、イスラエル軍部隊を一掃した。 一大災厄にも関わらず、レシェフは依然として交差点を占拠する決意を固めたままであり、師団の偵察大隊へ自らの旅団へ加わるよう任務を課した。エジプト軍が南方と東方からのさらなる攻撃に対して準備していたところ、奇襲を成し遂げるため、当大隊は移動して3時に西方からの攻撃に出た。イスラエル軍が攻撃する中、ヤオブ・ブロム中佐がエジプト軍陣地からわずか30メートルの地点で戦死し、配下大隊の襲撃を中断させた。イスラエル軍は損失を被ったものの、後退には成功した。ほどなくして、10月16日の4時に戦車の1個中隊が交差点を攻撃したが、3輌の戦車を失った後に退却した。 10月16日の4時時点で、97輌の戦車をもって作戦を開始していたレシェフの旅団は、12時間の戦闘で56輌を失っており、41輌のみが残されていた。渡河地点の占拠自体は容易に達成されたものの、頑強な抵抗が残されたレシェフの目標、すなわち運河への道を開き回廊を確保することを妨げていた。レシェフの戦力は、正午には戦車27輌にまで減少することになる。全体として、シャロンの師団は当夜におよそ300名の戦死者、そして1,000名の負傷者を出した。レシェフの回廊確保を支援するため、シャロンは18時に2個戦車大隊を追加で供給し、彼の配下の数を81輌にまで増加させた。 交差点と中国農場の間で激しい戦闘が起きているとの報告を聞き、モーシェ・ダヤン国防相はマット(英語版)の旅団の撤退と作戦の中止を提案した。空挺部隊員が殲滅の危機に晒されているとの懸念を口にし、橋のために回廊を開く試みが全て失敗したと言及した。ゴネン(英語版)は提案を拒み、「このようなことが起こると事前に判っていれば、渡河作戦を開始することはなかったでしょうが、今や渡河を果たしたのですから、あくまでやり遂げることにしましょう」と述べた。バーレブ(英語版)はゴネンに同意し、ダヤンは自らの提案に拘らないことを決めた。6時頃にゴルダ・メイア首相がダヤンへ電話をかけ、状況を尋ねた。ダヤンは彼女へ、橋がまだ架けられておらず、エジプト軍がデバーソワーに通ずる道路を封鎖したと知らせた。エジプト軍の抵抗が克服され、朝の間に架橋がなされる点に大きな望みがあるとも述べた。ダヤンはまた、マットの空挺旅団が抵抗に遭うことなく西岸へと渡っており、また南部方面軍司令部は現状で、例え架橋作業が遅れていても旅団を引き揚げる意向はないとも告げた。 夜明け後ほどなくして、レシェフは丘の上から戦場の偵察を行った。車体隠蔽位置を取るエジプト軍戦車、そしてたこつぼ壕(英語版)、あるいは中国農場の現在は乾いている灌漑溝に位置する歩兵で構成された、交差点を守るための強固な阻止陣地をエジプト軍が築いているさまを彼は眼にした。歩兵は第16旅団の右翼側大隊であり、無反動ライフルやRPG-7、そして手動誘導型ミサイルのAT-3・サガー数機による援護を受けていた。エジプト軍はレキシコン道路の両側に地雷を敷設しており、それによって自らが配下の戦車数輌を失ったことをレシェフは悟った。 レシェフは戦術の変更を決意した。自らが第40機甲大隊について、前夜の戦闘から回収して修理した戦車群で増強して指揮し、戦車1個中隊と歩兵1個中隊が南から北へと攻撃を行う間に、側面からエジプト軍陣地に打撃を加えるため、西方から――運河の方向から――攻撃行動に入った。レシェフの部隊は長い距離を置いてエジプト軍と交戦し、遠方から防御陣地を狙い撃ち、一方で交差点に進むため、射撃と移動を交互に行った。守備する歩兵大隊はうち続く戦闘に消耗し、また深刻な弾薬の欠乏に苦しみ、ほどなくして撤退し、遂にイスラエル軍に交差点の占拠を許した。 その間に新たな難題が浮上していた。シャロンは南部方面軍司令部へ、エレツ(ヘブライ語版)の旅団に牽引されている移動橋の一部分が損傷しており、工兵による修理に数時間を要すると連絡した。またレシェフの旅団が直面する強固な抵抗に触れて、回廊の確保を支援するため追加の戦力を求めた。シャロンの報告はバーレブに、配下の師団をもって回廊を開くため準備するようアダンへ警戒態勢を促すこととなった。アダンの師団が筏で運河を渡り、橋を待たずにアビレイ・レブ作戦を進めることに、シャロンは賛意を示した。ゴネンとバーレブの両者とも、運河へ向けて確保された回廊がなければ西岸のイスラエル軍部隊が包囲の危険に晒されるであろうとして、シャロンの提案を退けた。次いでバーレブは、架橋がなされるまでは、イスラエル軍の部隊や装備はこれ以上の西岸への渡河を行ってはならないと命じた。 増強部隊を受領して、レシェフはティルツール道路の掃討に専念した。およそ30輌の戦車を備えた1個大隊を交差点と中国農場西側との間に残して、シャロンが供給した2個機甲大隊による攻撃を準備した。第16歩兵旅団の左翼側面を形成するエジプト軍大隊が守っているティルツール道路の箇所へ、彼は注力した。レシェフ配下の1個大隊が北東から、別の1個大隊は西から攻撃を行った。エジプト軍大隊はミズーリの丘陵上の戦車や対戦車兵器からの攻撃で支援されて、進撃の阻止に成功し、レシェフに攻撃を打ち切らせた。 この最新の試みが、レシェフの旅団を絶望的な状況に置いた。残存の戦車は27輌で、弾薬や軍事物資が不足し始めていた。レシェフはシャロンへ、配下部隊を再編成し、戦闘能率を回復させるため、旅団をラケカン要塞まで引き揚げる許可を求めた。
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