レキシントンからメノトミー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/25 06:29 UTC 版)
「レキシントン・コンコードの戦い」の記事における「レキシントンからメノトミー」の解説
パーシー伯は合流した軍隊約1,900名の支配を取り戻し、兵士に休息を与え、飲み食いさせ、野戦本部としたマンロー酒場で傷の手当てをさせてから、その日の最後の行軍に出ることとした。午後3時半頃部隊はレキシントンを出発した。 マサチューセッツ植民地部隊の指揮はレキシントンでウィリアム・ヒース准将が執ることになった。その日の早く、ヒースはまずウォータータウンに行き、ジョセフ・ウォーレン(その朝にボストンを離れた)や他のマサチューセッツ安全委員会のメンバーと今後の戦術について話し合った。ヒースとウォーレンはパーシー伯の大砲や分隊に対応して、大砲の発砲を呼ぶような密集隊形を避けるように民兵に命令を伝えた。その替わりに、パーシー伯の部隊を囲むように動いて、個々の民兵は最小のリスクで敵部隊に最大の被害を与えるよう遠距離からの狙撃をさせた。 乗馬していた民兵は馬を降り正規兵に近づいて銃撃し、また馬に乗って駆けてこれを繰り返すという戦術を採った。馬の無い民兵は生き残るために遠距離から発砲した。イギリス軍も植民民兵も持っていたのはマスケット銃であり、その射程は高々50ヤード (45 m)であった。それでも兵士の誰かにあたればという期待であった。しかし、散開した分隊を攻撃するのは難しかった。民兵は撤退するイギリス軍に対し弾薬を使い果たすと、その場を離れ、家に帰り、道路沿いにある次の町の民兵に後を任せた。この戦闘で両軍にライフル銃があったという直接の証拠は無い。両軍とも確実にあったのは滑腔銃マスケットであったし、参加した者からもライフル銃に関する証言は無い。植民地の者がマスケット銃よりも3、4倍射程の長く、精度も高いライフル銃を使ったとしたら、民兵は遠距離から精度良く攻撃しイギリス兵を多く殺したであろうし、自分達は危険性が少なかったであろう。しかし、このようなことは起こらなかった。 傷ついた正規兵は大砲車の上に載せられていたので、民兵集団に向かって発砲したときは、つんのめることになった。パーシー伯の部隊はしばしば取り囲まれたが、内側に入っているときは戦術的な長所があった。パーシー伯は必要な所に容易に部隊を動かしたが、愛国者達はその隊形の外側を大きく回り込む必要があった。パーシー伯は、スミス隊の兵士を縦隊の中央に置き、第23連隊の中隊には縦隊の後衛に着かせた。スミスやピトケアンから愛国者達がどのように攻撃を掛けてくるかを聞いたパーシー伯は、後衛部隊は1マイルごとに回り込んで交替し、簡単な休憩を取るようにさせた。道路の両側に分隊を送り、一番元気な海兵隊が前衛として進路を切り開いていった。 パーシー伯は後に次の様に記録している。「反逆者達は散開し不規則なやり方で、しかし忍耐強く決意を持って攻撃してきた。ただし決して戦闘隊形を組もうとはしなかった。実の所、彼らはなすべきことを良く心得ていた。彼らを統率されない暴徒と見ている者がおれば、それは大きな間違いであることが分かっただろう。」ヒースは、中隊レベルの士官に意図的に散開しながら包囲陣を動かし続けさせ、遠くの部隊には追いついてくるように命令を伝えることに成功していた。しかし、マサチューセッツの民兵にはまだ命令系統がはっきりしていないところがあり、多くは命令を無視し、同じ戦術に従うことを続けた。ピッカリングのエセックス郡民兵は、命令されても発砲を拒否した。ヒースとウォーレンは自ら狙撃兵を率いて前線に出ることもあった。戦闘のこの段階は愛国者軍の命令体系が混乱していたと伝えられている。 パーシー伯の部隊がレキシントンからメノトミー(今日のアーリントン)に入ったとき戦闘が一段と激しくなった。新しく加わった民兵が遠距離からイギリス軍を銃撃し、道の傍の土地所有者は自分の領地の中から狙撃した。狙撃手が狙いを定めるために使われた家もあった。ジェイソン・ラッセルは「イギリス人の家はすなわちその城だ」と言って友人を説得し共に戦い彼の家を守るようにし向けた。ラッセルは自家に留まり、その戸口で殺された。彼の友人は追ってこようとした兵士を撃った後、地下室に逃れたか、殺されたかのどちらかである。ラッセルの家は戦闘の時の銃痕とともに今も残されている。ラッセルの果樹園から待ち伏せを仕掛けようとした民兵の1隊はイギリス軍の分隊に捕まり11名が殺された。このうちの何人かは降伏しても殺されたという。 パーシー伯は部下の制御が効かなくなっており、オールド・ノース・ブリッジでの死体や見えない敵からの遠距離攻撃による被害に対して報復するために残虐行為を働くようになっていた。ピトケアンやスミス隊の負傷した士官の証言によれば、ボストンに近く人口も多い町になって、パーシー伯は民兵達が石壁や樹木、建物の陰から狙い撃ちしてくることを理解した。パーシー伯は分隊を使ってそのような場所から民兵を追い出すようにし向けた。 分隊の若い士官がその命令を誤解しており、兵士が荒らし回り、中にいる誰彼となく殺害するのを止めようとしなかった。酒場の地下室に隠れることを拒んだ無邪気な酔っぱらい2人が、その日の出来事に絡んでいたと疑われて殺された。宣伝価値をあげる為に植民地の者が荒らしや放火について大げさに証言している(植民地政府から補償を得る目的もある)が、道路沿いの多くの酒場が荒らされ酒類を奪われたのは事実である。奪った方が酔っぱらってしまうこともあった。教会のミサ用の銀器が盗まれたが後にボストンで売られて見つかった。メノトミーの住人サミュエル・ホィットモアは3人の正規兵を殺したが分隊に襲われて虫の息となり放置された(ホィットモアはその後仲間に救われ98歳まで生きた)。他の町よりもメノトミーで多くの血が流されたという。ここで愛国者は25名が殺され9名が負傷した。イギリス軍は40名が戦死し、80名が負傷した。それぞれこの日の被害の半数に上った。
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