オールド・ノース・ブリッジ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/25 06:29 UTC 版)
「レキシントン・コンコードの戦い」の記事における「オールド・ノース・ブリッジ」の解説
バーレット大佐は村の広場から立ち上る煙を見て、自隊の下には数個中隊しかいないことを確認すると、それまでのプンカタセットヒルの有利な地点から、コンコード川に架かるオールド・ノース・ブリッジ(Old North Bridge)から約300ヤード (270 m)のやや低い平たい丘に移動することにした。その土地はバーレットの指揮下にある民兵を率いるジョン・バットリック少佐の所有地だった。しかも集合訓練地でもあった。イギリス軍の2個中隊がその場所を守っていたが、橋に向かって降りて行き丘をバーレット部隊に明け渡した。 民兵の5個中隊とアクトン、コンコード、ベドフォード、およびリンカーンから集まった民兵の5個中隊が丘を占領し、他にも加わって来る者がいて総勢は約500名となり、イギリス軍ローリー大尉の指揮する2個中隊90ないし95名と向き合った。バーレットはマサチューセッツの人達に橋に向かって降りていく公道に2列に長い横隊を作るよう命じ、協議集会を召集した。後にリバティ・ストリートと名付けられた道の向こうにあるノース・ブリッジを臨みながら、バーレットと他の大尉達はこれからの行動について協議した。遅れて到着したアクトンのアイザック・ディビス大尉は「私は行くのを恐れないし、行くのを怖がるような者はいませんよ」と言って町を進んで守ることを宣言した。 この時、一堂はコンコードの町に立ち上る大砲の台車や樽を焼く煙を初めて見つけた。多くの者はイギリス軍が町を焼き払い始めたと思った。バーレットは部隊の者に武装を命じ、敵が撃つまでは発砲するなと言い含めた。続いて部隊に前進を命じた。要所を固めていたイギリス軍の中隊はオールド・ノース・ブリッジを渡って撤退を命じられ、一人の士官が橋板をはがして植民地人の前進を止めようとした。バットリック少佐はイギリス軍に橋の破壊を止めるよう叫び始めた。民兵達は縦隊を作って公道の上のみを前進した。公道の両側は春の雪解け水であふれていた。 この時両軍には音楽も旗も無かった。何年も後に植民地側にいた老人が突然思い出したことは、笛の奏者が、ジャコバイトがハノーヴァー朝ジョージ3世に抵抗するときに使った有名な曲「ザ・ホワイト・コッケード」を演奏したということである。これは作り話の可能性があるが、スコットランドの反乱は30年ほど昔のことだったので、イギリス兵の中には「ザ・ホワイト・コッケード」が何を意味するかを理解できた者もいた。実のところ、当時の宣誓供述書にその日の橋で旗や音楽に言及したものは、両軍とも見あたらない。イギリス軍の側面を守る中隊には旗が無かった。民兵も全く旗を持っていなかった。 名目上ここで分隊を指揮していたウォルター・ローリー大尉は、実戦経験が少なくこの時戦術的な誤りを犯した。町中の擲弾兵隊に援軍を要請した結果が何者ももたらさないと分かった時、ローリーが発した命令は橋の後方で川に垂直に戦列を作り「ストリート・ファイアリング」を行う陣形を採らせたことだった。この陣形は町の中の建物の間など狭い通路に対して集中砲火を浴びせるには適しているが、橋の後方の開けた場所には適していなかった。橋を渡って撤退する正規兵が、他の部隊がストリート・ファイアリングの陣形を採っているのを見て混乱が広がることになった。ウィリアム・スーザランド中尉は隊形の後方にあって、戦術の誤りに気付き側面を抑える部隊を出そうとした。しかし、スーザランドはそこにいた兵士とは異なる中隊の者だったので、命令に従ったのは4名のみであった。残りの兵士は上官のローリーの命令に従うために混乱の中でできることを尽くした。 両軍は映画に出てくるような互いに向かい合った形にはならなかった。大文字のTの形に両軍が相対することになり、Tの字の上、水平線が愛国者兵、下の縦の線が橋であり、その先のローリーのイギリス兵ということになった。集団心理というのだろうが、混乱したイギリス兵はストリート・ファイアリングの陣形を作り続け、愛国者民兵は橋に向かって土手道を二列縦隊で進むという形になった。 1発の銃声が発せられた。今回はイギリス軍の列から発せられたことは両軍とも認識できた。ローリーが戦闘後に書いた報告書では、威嚇射撃であり、恐怖に取り付かれ疲れ切っていたイギリス兵が発砲したということである。直後に他にも2人の正規兵が発砲し、続いて1列になっていた部隊の先頭にいた兵士達が攻撃命令が出たものと思ってばらばらと発砲した時ローリーがそれを止めさせた。 橋に向かって前進していた愛国者民兵軍の先頭で、アクトンの民兵、アブナー・ホスマーとアイザック・デイビスが撃たれて即死し、4名が負傷したが、バットリック少佐が叫んだ「撃て!後生だ。仲間よ、撃て!」と叫んだ時に初めて停止した。隊列はコンコード川で遮られほんの50ヤード (45 m)の距離になっていた。民兵の先頭は道で遮られ、戦列を組むことが難しかったが、仲間の頭越し、肩越しにイギリス軍目がけて発砲した。銃弾は弧を描いて飛びイギリス兵の真ん中に跳んでいった。この一斉射撃で橋近くの隊列の先頭にいた8人のイギリス軍士官のうち4人が負傷した。最終的に3人の兵士が戦死し、スーザランド中尉を含む10名が負傷した。 イギリス兵は数的にも負けており、戦術的にも不利な位置にいることをこの時認識した。指揮官が欠け、多数の敵に恐れをなし、このような戦闘を以前に経験したことのないイギリス兵は、心を奪われて負傷者も捨て、町の中心からやってくる擲弾兵中隊の方に逃げ出した。
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